東国千年の都 | 上毛三山のブログ「百花繚乱」

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今日が最終日だったという事で、行って来ました。











どれもこれも滅多に見れないので見てるだけでも興奮しましたが、

中でも目を引いたのは多胡碑と共に「上野三碑」と称される

金井沢碑と山ノ上碑が展示されてる事でしたね。

で、碑にはそれぞれ次のような事が刻まれていました。


<多胡碑>
朝廷の弁官局から命令があった。
上野国片岡郡・緑野郡・甘良郡の三郡の中から
三百戸を分けて新たに郡をつくり、羊に支配を任せる。
郡の名は多胡郡としなさい。
和銅四(711)年三月九日甲寅。
左中弁正五位下多治比真人による宣旨である。
太政官の二品穂積親王、左太臣正二位石上(麻呂)尊、
右太臣二位藤原(不比等)尊。

<金井沢碑>
上野国(こうずけのくに)群馬郡(くるまのこおり)
下賛郷(しもさぬごう)高田里(たかだのさと)に住む
三家子■が(発願して)、祖先および父母の為に、
ただいま家刀自(いえとじ、主婦)の立場にある
他田君目頬刀自(おさだのきみめづらとじ)、
その子の加那刀自(かなとじ)、
孫の物部君午足(もののべのきみうまたり)、
次の蹄刀自(ひづめとじ)、
次の若蹄刀自(わかひづめとじ)の合せて六人、
また既に仏の教えで結ばれた三家毛人(みやけのえみし)、
次の知万呂、鍛師(かぬち)の
礒部君身麻呂(いそべのきみみまろ)の合せて三人が、
このように仏の教えによって(我家と一族の繁栄を願って)
お祈り申し上げる石文(いしぶみ)である。
神亀3年丙寅(へいいん)2月29日

<山ノ上碑>
辛巳年10月3日に記す。
佐野三家(さののみやけ)をお定めになった
健守命(たけもりのみこと)の子孫の黒売刀自(くろめとじ)。
これが、新川臣(にっかわのおみ)の子の
斯多々弥足尼(したたみのすくね)の子孫である
大児臣(おおごのおみ)に嫁いで生まれた子である
長利僧(ちょうりのほうし)が、母の為に記し定めた文である。
放光寺の僧。


更に調べてみたら、

多胡碑の「太政官の二品穂積親王」とは天武天皇の第五皇子で、

石上麻呂尊とは天武天皇の代には新羅大使に

聖武天皇の父親・文武天皇の代には筑紫総領として

北九州の経営に携わった奈良時代の左大臣で、

碑が設置されたのは西暦711年4月5日である事、

神亀3年は「長屋王の変」が起きる3年前の事で西暦では726年で

聖武天皇の代の年号という事から

金井沢碑が刻まれたのは西暦726年4月10日で

山上碑に記された「佐野三家」(大和政権の地方支配拠点)を経営した

豪族の末裔とみられる三家氏という古代の豪族が

先祖供養の為に造立した事、

そして天武天皇10年(西暦681)年に設置されたと

考えられる山ノ上碑については

母子の系譜を述べつつ放光寺の僧侶・長利が

母の黒売刀自の為に墓を建てた事が刻まれてる事から

日本最古の墓誌ともされてる事等々、

今まで知りえなかった事が解って来て今も興奮しています。

これらの内容から古墳時代~奈良時代にかけての上州は

多くの豪族によって繁栄を謳歌し

大和朝廷からも重要視されていた事等が想像出来ます。

こういうのもまた古代史の醍醐味ですから

想像するだけでもロマンを感じますよ。

その他には石の水路の一部や

今も古墳の石室に安置されている石の棺のレプリカ、

更には東大寺の鴟尾や名古屋城でも有名な

シャチホコの原型ともいわれる物まで展示されていて

知った時はテンションがさらにUPアップ

こういうの好きだからか入った瞬間大興奮。

なにせ本物の瑪瑙を用いた勾玉まで見れたのですから。

残念ながら多胡碑は見れませんでしたが、

またこういう展覧会をやって欲しいです。