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先日「スペース・カウボーイ」を観た勢いで私の一番好きなイーストウッドさんの「許されざる者」も昨日ひとりで観ました。
 
1992年作品
 
初めて観たのは2月か3月に試写会で。
 
それまでイーストウッドは「ダーティハリー」シリーズと「荒野の用心棒」のマカロニウェスタンの不敵な顔のガンマンのイメージが強くて、どっちかというと鳥山明先生の「ドクター・スランプ」のクリキントンさんのイメージしかないまま映画はスルーしてました(^^;)
亡き父の方がアクション映画が好きだったので「イーストの映画ハート」ってチェックしてましたね。(めんどくさくてちゃんとした名前で呼んでなかった)
ただ、その2年前にミニシアターの招待券があったので監督&主演の「ホワイトハンターブラックハート」を観ました。
ジョン・ヒューストン監督が「アフリカの女王」を撮影するためにアフリカに行って、撮影をせずに象狩りに夢中になるという実話を描いてたのだけど、ずっとアクションスターのイメージしかなかったイーストウッドがなんだか悶々とするストーリーを撮ったので、面白い人なんじゃないかとやっと気づいた遅刻者が私です(^^;)
 
考えたらその前年に「バード」で監督の手腕を認められてアカデミー賞を獲ってたんですよね。
食わず嫌いはいかんな、と言うのと、試写会なのでタダで映画が一本観れる♪という邪心と、やたらPRで
「最後の西部劇」
みたいなことを言っているので、たしかにこの時期には西部劇というアメリカの時代劇は「ヤングガン」「シルバラード」「ワイアットアープ」とか、ちょっと復活の兆しはあったけど、全盛期の70年代に名をはせたイーストウッドさんが監督&主演をする映画!それを「最後」とは??
と、いうのも気になってた。
 
ポスター別バージョン。
有名共演者の顔が縦並びになってるバージョン。
ジーン・ハックマンもモーガン・フリーマンも、リチャード・ハリス様もみんな主演格俳優。
 
観終わったら、すっかりこの時還暦越えだったイーストウッドにときめいちゃいました。
 
いや、もうこのあとレンタルビデオに通って彼の過去作品を見まくったんですが、面白かった!
でも、やはり「許されざる者」の時の枯れた魅力と悪人復活の迫力に勝らなくて、老いてからの方が魅力的という(私には)めぐり合わせの作品でした。
4月に公開してから父と観に行き、この映画でもアカデミー賞を受賞してロングランしてくれたので6月の自分の誕生日は仕事が終わってからまた一人でこれを鑑賞して過ごしました。
 
もちろんレンタルビデオで借りてお家鑑賞もしましたが・・・今回も30年経って液晶画面での再見で迫力もあったはずなのですが、雨の中の怒声や銃に弾を込める音などの臨場感は映画館で観た時の方が迫力と興奮が強かったなぁ、と感じました。
 
顔を切りつけられた娼婦での騒ぎを示談で収めた保安官。
気持ちのおさまりがつかない娼婦の姉御が仲間とお金を合わせてそれを賞金に復讐を町に来る客にもちかける・・・という筋。
 
映画としてはモノローグでもナレーションでもなく、イーストウッドに関してはテロップで主人公のマニーがかつては残忍非道な悪人だったが一人の女性のおかげで更生して牧場を営んで子供ももうけたが、妻は病死したと説明されてるだけ。
 
画面で展開するのは牧場の豚が病気だから他の豚に感染しないよう隔離させようと四苦八苦するおじさんの姿。
子役も特にドラマ的に感情的なところもなく・・・。
彼の過去の噂を聞いた若者が賞金目当てに誘いに来る。
 
この後も牧場に関しては幼い子供らに任せて馬から落ちそうになりながらも昔の相棒のモーガン・フリーマン扮するネッドを誘って若者を追いかけて合流する。
けど、イーストウッドの演出が武骨なのか、他の映画でもそうなんだけど、どのキャラクターも感情が伝わらない。
子供らに関しては親子の情も描かれてないし、そういう会話もない。
まだ本能的な事を口にするネッドや若造の方が何となく性格付けが伝わってくるけど、マニーに関してはストイックなのは真面目だからか、贖罪からなのか、正義感なのか、その辺は全然わからん。
イーストウッドなので主人公として見る側は共感はしないけど、彼の行動に寄り添って見続けて行くので展開するにしたがって、過去の残忍だったマニーの片鱗が少しずつあらわになって行って、クライマックスで誰が正義か悪かがわからなくなってしまうのが衝撃的であるのです。
 
娼婦らの恨みによってお尋ね者になってしまった娼婦を傷つけた男とその友人。
友人はいっしょにいたって事だけで、その場でも反省する言葉を吐いてるし、示談にされた財産の馬をちゃんと持参して、被害者娼婦に一番いい馬を譲ろうとさえしていたので巻き添えというか気の毒としか言えない。
 
ハックマンの保安官も暴力的ではあるけど町の治安からのこと。
もめ事にならないよう示談金がわりの馬を持ってこいと交渉までしてくれてたのにね。
 
リチャード・ハリス様はマニーとの絡みがないけど保安官の描写のためのキャラクターとしてゲストキャラ的な存在。
賞金を渡しに来た娼婦にこの騒動と自分の過去も合わせてつぶやくのは、自責の言葉とも取れるし、制裁を与えようとする者たちへの言葉でもあるけれど。
この映画が「最後の西部劇」と謳うのは、過去の西部劇は勧善懲悪で、主人公が悪徳者と決闘して撃ち殺すのは正義、という展開だったから。
西部開拓時代も戦国時代もやるかやられるかの時代だから時が経って人間のモラルが変わって行くのは当然のことでもあるのです。
いまはそのモラルも超越してパワハラ、モラハラ、セクハラ、とハラスメントの線引きがよくわからん時代になってしまってるけど、150年前はナニ言っとるんじゃー!!な世の中だったんだよね。
この作品のキャラクターたちは賞金につられて会った事もない相手を殺しに山を越えてやってくるんだからね。普通に考えたら怖いです。
写真なんて持ってないからターゲットを勘で当ててるっぽいし、狩りでもするように銃を向ける。
 
だから人情味のある性格のネッドは生きている人間に銃口をむける恐ろしさに気付いて離脱するし、初めての「殺人」に贖罪意識を感じた若造は懲りてしまう。
でも、更生したと思ったマニーは淡々と引き金が引ける。これは正当な事なのか間違ってるのか?
観客は悪徳に描かれた保安官が銃を向けられても全然スッキリしないし、哀しい気持ちが残る。
 
これって、後々もイーストウッド監督作品のほとんどと同じ「後味の悪さ」と同じなんですよね。
「ミリオンダラーベイビー」も「グラントリノ」も「ミスティック・リバー」なんて決定的に後味が悪い。
誰が正しいかが決められない・・・そんな終わり方がほとんど。
 
だからマニーはヒーローでもないけど娼婦たちにとっては悪人ではない・・・
西部劇ってそういう人間の残酷目線で楽しんでいたのか?とすらも思わせる深さを30年前に感じました。
 
 
劇場公開のときには和訳にちゃんと
「セルジオ・レオーネとドン・シーゲルに捧ぐ」ってテロップ出てたのにな。
 
セルジオ・レオーネは彼がイタリアに渡って「荒野の用心棒」などを撮ったマカロニ・ウエスタンの監督。
ドン・シーゲルは「ダーティハリー」シリーズで彼をスターダムに押し上げた監督。
どちらもイーストウッド主演ありきでの傑作を残した方々。
レオーネは89年に、シーゲルは91年に亡くなってます。92年公開作のこの映画の製作中の訃報じゃないかな。
それだけに彼らに捧げるとラストに記したこの作品・・・考えるとしみじみとイーストウッドの映画人生に思いをはせてしまいます。
 
 
だけど、この映画でときめいた私って・・・実はネッドのライフルを受けとって構えるこの構図・・・おお~!カッコイイと思ってしまったと同時に・・・
血管の浮き出てるゴツゴツとした手の甲と腕。コレはセクシーすぎるラブラブ
 
というとこで、私の手首フェチ覚醒なのでした~ゲラゲラ飛び出すハート
 
というカミングアウトしたところでシメ。
 
当時のパンフレットは読む所も多かったね~。
 
 
 
サントラはレニ・ニーハウスだけど、主題曲はイーストウッドさんご自身の作曲というのも多芸多才なところですよね。
サントラも買っちゃったよ。