アキははっと我に帰り、男が握らせたお札を

財布へと閉まった。


「あの、すいません…それで、どうすればいいでしょうか」


男が答える。

「そんなこと聞かれるの初めてだよ。そうだね、少し話す?」


男はガラステーブルの上に置かれたライターを手に取り、煙草にゆっくり火を点けた。


「でも、あの時間が…。その…」

アキはどうせなら、早いところ終わらせてしまいたかった。


「うん?いいよ。焦らなくても、延長したっていいしさ」




延長…。


有加里から聞いた“イロハ”にはなかった言葉が出て来てしまった…。







アキはどこか潔癖なところがあった。

初めてのあの時も、
怖さと、その行為が不潔で汚らわしいことに思えて仕方がなかった。

だから、恋人ができても、その日を迎えることを何度も拒み、恋人には愛情を疑われた。

疑われることに疲れ、仕方なく、恋人を受け容れるが、やはり、最初と数回は苦痛で仕方なかった。

しかし、恋人はアキを大切に、壊れ物を丁寧に、傷つかぬように扱うように愛しんだ。

恋人のその優しさが、アキの心の奥底に根付いていた、性への必要以上な嫌悪感を解凍させた。




両親が別居した都合により、女手ひとつになった母は、引越を余儀なくされ、小学生だったアキも越境登校を強いられていた。

強いられたというか、途中で学校が変わるのは可哀相であるという、母親と担任による話し合いの末に決ったことであった。


アキも転校はしたくなかった。

通っている小学校がある町の隣町、子供の足ではゆうに、1時間は掛かる通学路をアキは毎日通っていた。


アキが生まれ育った町は、年々土地が高騰し、割と富裕層が集まっている住宅地だった。


アパートやマンションは少なく、古くからの旧家や名家が立ち並び、高名な著名人や文豪たちも暮らす町だ。

アキの1時間掛かる通学路は、閑静な住宅街を抜ける道だ。

下町や商店街とは違い、道路からは、門扉や庭しか見えずに家そのものは見えないような造りの大きな屋敷ばかりで、人通りも少ない道だった。


その日は朝から激しい雨が降り続いていた。


アキは何時ものように登校する為に、通学路を歩いていた。ただでさえ、人通りの少ない道。雨のせいで、空は暗く、まるで夕方のようで、今朝は人っこひとりいない。


その時、背後から車がやってくる音に気づいた。
なるべく、左の民家の塀にアキは体を寄せた。

しかし、次の瞬間、車がアキのすぐ脇を通った瞬間に、夥しい水がびっしょりと右半身に跳ねかかった。

冷たい!アキは一瞬身を捩った。

前方を見ると、車が停まり、運転席から中年の男が慌てた様子で出てきて小走りにアキへと近寄ってきた。

「ごめん、ごめん!水溜まりがあったんだね」

男は薄い頭を掻きながら、アキを見た。

「大丈夫です。」

アキは母親や担任がよく話す言葉を頭に巡らせた。
“知らない人と話しちゃだめよ”

アキは人一倍警戒心の強い子供だった。

傘を持直し、ランドセルのショルダーベルトを握り締め、アキはすぐ様その場から立ち去ろうとしたが、男はアキの手をがっしりと掴んだ。

アキはびっくりして、声も出なくなり、体が硬直するのがわかった。

「だめだめ、風邪ひいちゃうから、学校まで送ってあげるから、おじさんの車に乗って、ね」

アキの頭の中にもうひとつ、よく言われる言葉が浮かんだ。

“知らない人についていっちゃだめよ”

「平気です」

アキは必死に声を絞りだした。

ところが、右手を掴む男の力はさっきよりも強くなり、アキをまるで逃がさないかのように、しっかりと掴み、左手でズボンのポケットを探り始めた。

「じゃあね、おじさん、悪いから、お嬢さんの服拭いてあげるから」 

そう言いながら、右手はさらに強くアキの腕を掴み、雨で濡れた道路に躊躇う事なく膝まつき、目はアキの下半身だけをギラギラさせて見つめている。
そうして間髪入れずに、アキのスカートの濡れて汚れた部分をさっきポケットから取り出したしわくちゃなハンカチで乱暴に、拭きはじめた。

アキは、本能的に嫌悪を感じるも、親切でやってくれているのなら、抵抗するのも悪い気がした。

「こんなに濡れちゃって…」

一瞬、男が笑った気がして、アキはさらに体を硬くした。

逃げなきゃ。

なんとなく、そう思った。

でも男の右手は緩まない。
ハンカチを持った左手が、スカートの中の太股に強引に触れた。触れたと言うより、撫でてきた。

恐怖とそのざらついた手の感触の気持ち悪さにおののき、アキは必死に逃れようとしたが、次の瞬間、男の左手、指が下着の中に滑りこんできた。

確かに、一瞬男は下着の中に手を突っ込み、アキのあの部分を触った。

「もうやめてください!学校に遅刻しちゃうし」
金縛りから溶けたようにアキはありったけの、力の限りに叫んだ。

男はびくっとして、するりと、下着の中から手を出した。

そうして、何事もなかったかのように、悪怯れず、「本当に、洋服を汚しちゃってごめんね」と言い残し、そそくさと車に乗り込み、猛スピードで消え去って行った。

アキは茫然とした。

この時のアキには、これが、悪戯という、悪いことであるとか、いやらしいことをされてしまったんだ、とかが判るすべもなく、ただただ、怖くて怖くて、誰にも話せないようなことだということだけは、なんとなく判った。


後に、すべてが明らかになり、猛烈な怒りと恥ずかしさと、吐き気をもよおす日が来る。
アキはこの時の体験が、トラウマになっているのだと確信した。
ほどなくして、
その重厚な扉は、開かれた。

アキの目線のすぐ先には、濃紺のスーツを綺麗に着こなした、年の頃なら30歳前後の男が立っていた。

男は素早く、アキを上から下まで見渡し、照れたように笑って、招き入れるジェスチャーをした。

男は取り立てて、いい男という訳ではないが、汚らしい中年という訳でもなく、その容姿があまりにも普通過ぎて、アキはほっと安心するのと同時に、拍子抜けしてしまった。

「どうかした?」

思わず、あれだけ反芻していた挨拶も忘れ、茫然自失なアキに気づいた男が笑い交じりに、問い掛ける。

我に帰ったアキは慌てて、挨拶をした。

「あ、あの初めまして。あ、アキです。今日はありがとうございました!」 
アキは、自分でも驚くようなすっとんきょうな声を出し、おまけに深々とおじぎをしている。

男は面食らった後、苦笑し、スーツの上着の内ポケットから、黒革の長財布を取り出した。


「君、さっき聞いた通り、こういう仕事、本当に今日が初めてなんだね。」

男は、感心したふうに頷きながら財布からお金を出すと、アキの手をそっと掴み、その手にお金を優しく握らせた。


「部屋に着いたらまずはお金を真っ先にもらうこと。言われなかった?」
男は優しく微笑んだ。