逃げろと叫ぶ暇もなく
逃げろと叫ぶ暇もなく ちょっとだけ「むむ?」と感じるものがあった。 ここは文芸サークルの場だから、社会的なことを話したり、世相を生々しく伝えたりするのはおかしいかもしれないけど、でも、やっぱり、文章表現ということからいえば、きわめて大切なことだとおもうから、ちょっとだけ書き留めとく。 ぼくが新聞記事で「むむ?」とおもったのは、こういうことだ。「逃げろ」と叫ぶ暇なく という見出し表現はおかしいのではないか?これは創作された文章で、事実を淡々と報じなければならない新聞記事とするのはおかしいのではないか?と。新聞紙上の言葉づかいとは、まったく本質的に違ってるものなんじゃないかって。だって、ニュースと創作は絶対的に異なるもので、その境目は決してあやふやであってはいけないっておもうからだ。 一般的には、新聞記事は「事実に基づき、簡潔で感情をあおらない文体が基本である」ってされてる。新聞社には校閲部門があって、事実関係だけでなく、表現の妥当性や語感もチェックされてるはずだから。ところが、記事を書いてるのは人間だからさ、すべてが「無色透明な文体」ってわけじゃないのよね。あっちゃいけないことながら、現場や事件の緊迫感を伝えるために、ちょっとばかり迫真的な表現や比喩を持ってきたりすることもなきにしもあらずなんだよね。そうじゃない?そうしてるでしょ?読者に事の重大さを伝えるための技術なのだとかいう言い訳、通用させてない? で、 ――「逃げろ」と叫ぶ暇なく。 というのは、どういう意味を持った表現なのかってことだ。 ――時間的余裕がほとんどなかった。 という状況をイメージさせるための決まり文句、だったんだよね? でもさ、これって「事実を淡々と積み上げる」というよりは「状況説明をドラマ化」してるんじゃない?小説みたいじゃない?創作としかおもえない言い回しじゃない?報道として、おかしくない? 歯に衣着せてても仕方ないから、書く。 これは、沖縄タイムスの『辺野古のボート事件』の記事だ。 見出しで使われてるのは、こんな表現。「逃げろ」と叫ぶ暇なく転覆 ――風向きが急に変わり、あっという間に波にのまれた。 という趣旨を強調するための表現とされるんだけど、いやまじかって話だ。 記事の伝えたいのは「ほとんど時間的猶予がなかった」という状況だよね。それを、決まり文句で表現したわけだよね。でもさ、報道として妥当な表現なんだろうか?違和感があるなあ。 これ、実際に「逃げろ」という言葉が発せられた事実はないんですよ。なのに、小説のような情景描写が行なわれてるわけですよ。淡々とした記述をしなければならないというのが大前提であるはずの「記事」からは、まったく外れてるんじゃない?こういうときは「立っていられないほど」とか「一瞬にしてのみ込まれ」とかっていう表現をしないか?もしも、こんな表現がこの国の新聞の慣行で、よくある程度の描写だとしたら、報道ってなによってことにならないかしら? まあ、それでも、いやいや慣例的な文章表現ですから、とか言うのであればよ、逃げろって言われてもどこへ逃げろっていうの?たった6メートルくらいしかない短艇の上で逃げ場なんかないじゃんって言われちゃわない?ぼくは、こういう表現は、やっぱり、記事としては不適切だったんじゃないかって気がするな。物語じみてるんだもん。 でね、その上で話を進めるんだけど、この記事で気になるのは「誰の視点で書いてるのか」ってことだ。誰が「逃げろ」って叫ぼうとしたの?それ、取材してるの?いつ、どこで、取材したの?生存者が「逃げろと言おうとしたけど言えなかった」と証言したんなら、その人の名前や写真が掲載されててもおかしくなくない?それができないんなら、じゃあ、その証言した人をそばで見てた第三者が「叫ぼうとしてたんだよ」とかって補足したわけ?ちがうよね。そうじゃないでしょ? つまり、客観的にはまるで分かってないわけで、にもかかわらず「叫ぶ間もなく」と断定的に書くのは、これを書いた記者が「その場の誰かの心の動きを想像して補った」んじゃね?ってことになる。あきらかに、事実を説明するために感情的な色合いと物語性を持たせた比喩的表現じゃん。こういう表現を用いちゃうと、この記事は読者の同情をひき、憐憫をあおり、悲劇を背負ってしまった不運な人々という印象を持ってもらおうとしてるんじゃない?とおもわれても仕方がなくなっちゃうよ。 あのさ、あえていうんだけど、新聞記事なんだから、客観的な視点じゃなくちゃいけないんですよ、本来。それが、報道の原則ってやつでしょ?小説じゃないんだから、記者が心の動きを想像して書いたらダメなんですよ。直接の証言か、強い根拠がないかぎり、断定できないんですよ。それが、客観報道の基本だよね。「逃げろ」と叫ぶ暇なく転覆 とかって、誰が叫ぶつもりだったの?観察なんてできないじゃん。不可能じゃん。客観的とかいう範疇をまるっきり逸脱してるじゃん。文芸じゃないんだからさ、客観報道の視点からいうと、心的過程を決めつけている表現なんて、新聞が使ったらあかんのよ。不適切なのよ。 とはいえ、この国の新聞はそういう表現が、よく…あ、いや…たまにあるような気もするけどね。くりかえしになるけど、ほら、定型句だから。でもね、慣用的な表現としてもよ、今回の場合は、特に、あくまでも妥当な観点にしないと。被害者や当事者の心のありようを勝手に物語ったらあかんのですよ。 この表現は、見直すべきじゃない?