「言葉というものは本当に難しい」と、中高の先輩で今も付き合いのあるUさんが言った。自分の考えたことと違うことを言葉にしてしまったり、言葉に不自由さを感じるというのだ。
それには同感した。たしかに自分が考えていることを100%言葉にすることはできない。また、話している最中にも、心というものは、感じ続け、頭はそれに基づいて考え続けている。言葉は不自由である分、心というものは本当に自由だ。自分が感じることを規制することはできない。言葉にするという行為は、「心を区切る作業」と表現してもよい。例えば、何か感動的なものを体験した時、誰かに伝えたくなる。しかしながら、言葉にしてみると、何かしら理由を説明しながら、最後には「良かった」「嬉しかった」「感動した」という言葉で表現する。そして話し終わってみると、相手に伝えたいのに伝わり切らず、何だかモヤモヤした気持ちになるということは誰にだってあるのではないだろうか。言葉を多くしてみても、言葉と言葉の間にある大きな何かが隠れてしまう、というよりは失うのだろうか…。
また、数年前、小泉純一郎が総理大臣だった頃、相撲の優勝力士に向けて「感動した」と言ってトロフィーを渡し、これをメディアは大々的に報じ(この時点でおかしかったが)、人々はそのコメントをわりと好印象として受け取った。それもよく考えてみたら、「感動した」と一言で言える感動なんてあるのだろうか。これでは逆に単純過ぎる。言葉は多くしても少なくしても何かを失ってしまう。心の中にある豊かさ、自由さを表現しきれない。
だが、人間は言葉を使って生きている。言葉は思考を限定するとともに、言葉は思考する幅を増やしてくれるものだ。私たちは言葉を使えば使うほど、思考の世界をいくらでも広げていくことができる。世の中は豊かであり複雑だ。その中にあって、私たちは日々、人と出会い、言葉と向き合うことで、それを確認しているように思う。人は何を感じたって自由だ。「それは違う」と誰かに言われたとしても、私はそう感じたのだ。私の感じたことは制約されない。自由なのだ。
言葉は不自由だが、それを使いながら生活せざるをえない。言葉とは楽しく付き合っていきたい。言葉を考えること自体に私はある種の面白さを感じる。そして、相手の言葉から、相手の感じていることを「想像する力」というものを、もっと豊かにしていきたいと思う。
子どもたちと向き合う時、言葉はとても大切だ。子どもたちに大切なことを伝えるため、どのようにして語ればよいのか。これは、特に教会学校にて小学生にキリストの教えなどを伝える際に感じている。そのことについては、またいつか書こうと思う。