亡くなるまでの思い出と
三男が私達に伝えていってくれたことを
ブログに書いています。
間が空きますが久しぶりの投稿で続きです。
下半身不随になると本当に移動が大変で、
急な外泊の決断
何も揃っていない現状で、慌ただしく外泊前日に急遽ベッド搬入準備と酸素吸入レンタルができました。
自家用車から降りるのも大変でした。
病院では、何度か移動練習したことも息子にとっては負担で体力消耗でした。
だけど、絶対に家に連れて帰ってあげたいと願った一ヶ月で、父ちゃんの妹にも応援で来てもらい、
家族団結で三男を運びこんで、
ベッドに寝かせてから
やったーの歓声、帰ってこれたねって喜んだ。
三男坊は激痛でしたが帰ってからは、ニコニコしてた、きっと我慢してくれたんだと思う。
早速父ちゃんは息子のために、スパゲッティーを作ってあげて、三男坊は美味い、美味いとペロリ食べ、ご機嫌でした。
次男も帰って来て、次男が高校生になって新しくオーダーしたピッチャー用のグローブが出来ていたので、弟に渡して、三男はグローブを手にはめて、
『すごいなぁ、いいなぁ』って兄ちゃんを見ながら伝えて、
次男は『これでまたキャッチボールしよう、お前が頑張ってるから俺も頑張ってる、甲子園に連れて行くから』って会話をしていました。
三男坊はうん、うんって頷いて、
『大事なグローブを返すな』って次男に笑顔で返してた、久しぶりの兄弟のやりとり。
喧嘩をしていた次男と三男の久しぶりの会話が今でも思い出すと泣けてくる。
移動する時に、次男が三男におんぶしてやるからって一言言うと、とびっきりの笑顔になった、照れ笑いの嬉しさマックス
だけど胸に付けてるCVが邪魔をして、おんぶをしてもらえなかった。
残念で悔しくて泣いていた三男、
次男の優しさに触れて嬉しかった三男、
母ちゃんこの子達産んで良かったって改めて思った。
最後まで喧嘩しながらお互いを想いあってた2人
小さい頃なんか追いかけ回りながらの喧嘩も
大きくなると、言い合うより、話さなくなる
切ないよね、わかってるけど、命にカウトダウンが始まっていた。
三男坊が
お母さん、外泊はこれで最後にしような
何気ない一言が母ちゃんの胸に突き刺さる
ベッドマットが思い通りの固さではなく
ベッドサイドの手すりが短く力の入りようが不便で負担が増えた外泊、酸素吸入量も増え出した、眠れない母と疲れが見えた母の姿に三男坊が気づいたのか、
自分もかなりしんどかったのか???
次の日の夜まで居れるのに、外泊時間を切り上げ、朝に帰りたいと言い出した、よっぽどしんどかったんだと思う。
自宅の看取りという選択肢は本当にすごいことだと思った。
母ちゃんには覚悟なんかできなかった、
この時点でも治る、
奇跡が起きるって思ってた。
希望なんか捨てなかった。
諦めなかった母がいた。
だけど三男坊の体調を優先にした。
夜通し酸素の装置が鳴り響く、親子で眠れなかった
急遽病院に連絡、状況説明、介護タクシーの車までの移動支援を希望した。
介護タクシーの予約ができて、
来てくれた方達は偶然にも知り合いの方だった。
息子の姿に驚いていたような感じには見えたけれど
本当に親切にして頂いた。
痛がる息子だから、父ちゃんも入ってみんな掛け声だしながら、時間がかからないように、移動してくれた、感謝しかなかった。
当たり前のように歩いて移動していた時はわからなかったけれど、歩けなくなった息子を移動させるのに
夫婦だけでは困ることも、こういう方達が居てくれることがどれだけ有難いか、もっともっと職業が注目されることで、移動ができずに家と病院に帰れないって困ることが少しでも減っていけばと願った。
我が家は叶わなかったけれど
これが最後になってしまった外泊だった。
三男坊は何かしらわかっていたのかな?
どうだったんだろうか、、、
あの時に聞けるわけがない
時が戻れば、
あの日、
あの時と考えてしまう
今を大切にと思えることができたのは
大切な人を失ってしまってからだ
三男と約束した次男は最後の高校野球
夏の大会を迎える
約束を叶えるために頑張ってきた次男
背番号を頂けた報告を家族LINEに
1人既読にならない
1人から返事がない
帰宅してから背番号を弟の遺影の前に置いて報告
幼い頃から夢見てきた甲子園に行くために頑張ってきた野球
本人にはまだ伝えれてないけれど
高校入学して家族におきたことと
野球の大変さによく耐えた
あとはやり切って欲しいな
この2年病室で三男と見ていた高校野球がはじまる
あの子は空からじいちゃんばあちゃん引き連れて
小さい女の子たちと、応援団作ってくれてる気がするな
頼んだよ我が家の応援団長三男
また続きます