アメリカには滞在許可証なるI-94というものがある。文字通り、この期限までなら滞在可能というものだが、これがビザよりも重要になる。(ビザは就労許可というだけで、そもそも滞在ステータスが有効でなければ就労もへったくれもない。)

このI-94の通常期限は2年間だが、アメリカ出入国するたびにリセット、更新される。ところが流石その辺りの手続きも雑なアメリカ、やってくれました。

前回入国日(19年7月)で更新され2021年7月まで延びていると思っていた期限が、なぜか初回発行時点(2017年)での期限の2019年まで遡って切れているではないか!(パスポートに押された日付入スタンプで管理されているから大丈夫だと思い込んでいた自分も悪いが、2013年に電子化されてからはオンラインの記録を常にアップデートしなければならない)

すぐに顧問弁護士に相談して移民局に修正依頼を出すも、ヒヤヒヤ(*_*) 色んな人の体験談をネットで検索したりするが、なんとかなったと言う事例や、不法滞在なら今後10年は入国出来ないなどという現実も散見。突然の死刑宣告を受けたような気持ちで、もし強制送還となれば忘れた頃の笑い話にもならない。クリスマス休暇も挟んでおり役所の反応も遅いので、気が気でなかった。


なんとか電話予約を経て、シアトル郊外のオフィスに面談に向かう。一応役所だから待合の人も多いかと思いきや、ガランとした雰囲気。1時からの予約だが15分ほど早く着いたので、警察のユニホームを着た係員に座って待っているように言われた。

が、待てど暮らせど一向にオフィサーが現れる気配がない。(さっきまで掃除に入っていた清掃員が出て行ったきりで、無人と分かっていたが)指定された部屋のドアを改めてノックしてみると、その音を聞いてか隣の部屋から「どうぞ」と声が。

さっきの警察のユニホーム来た係員ではないか!なんだよ、お前が担当かよ!と腑に落ちない気持ちで1人ツッコミしながら部屋に入る。出入国を証明する為の現地決済の銀行明細やレシートなど色々用意して行ったが、事情説明だけで割とあっさり修正完了。記録が電子化されるようになってから稀にちゃんとアップデートされないことがあるから、その場でスマホで確認するように〜、まあ毎回このオフィスに来て修正したいなら別だけど〜、と和やかな雰囲気で終わった。


ちなみに今はコロナ禍での対応として、滞在期限の米国内での暫定的な延長もできるとのこと(最長240日間)。ただ、どのみち今年中にはまた期限が来るので再度出入国の段取りを組まなくてはならない。一時入国する国でのPCR検査と隔離期間も絡むし、いっそ入国せずにトンボ帰りとかも可能なのかなーなどと、色んな選択肢を考えるのはまた別の話である。



1/13/2019


カタコトのスペイン語を試そうとチャレンジした旅だったが、全体を通して想像以上にスムーズにいった。ローカルは仕方ないにしてもホテルや空港でさえ英語が通じないことも多々あり、なかなかサバイバルな旅となったが、行った先々で新たな単語を知りコミュニケーションの精度を上げる。スペイン語は英語と競うほど使用人口の多い言語で、それ故に、日本なら「白人だから日本語が不慣れだろう」と勝手な偏見を多少なり持つところだが、ここでは一般的にはスペイン語を話せて当然。「外見がアジア人だからスペイン語を話さない人」という論理では対応しない。でも基本的にフレンドリーで、こちらから話しかけるのも億劫にならない。発音は日本語に近く、単語レベルでは英語に通じるものがあるので予想もしやすいのだ。ただ次にチャンスがあるならば、もう少し活用系も勉強していきたい。動詞の変化によって、「私がする」のか「あなたがする」のか、または「彼がする」のか意味合いが変わるらしい。僕みたいに「trabajo=仕事する」で覚えていると He works for me.”のつもりで言ったのに「彼は(私が)私のために働く」となって訳が分からなくなる。


午後4時半の飛行機まで移動を含めても朝は少し余裕があったので、ホテル近辺の散歩をする。シアトルから戻ってきていた友人が近くにいるとのことで、合流することになった。職場で精勤してくれていた日系の子で、得意のスペイン語を活かしてメキシコで半年強をボランティア活動をして生活しているという。ちょうどクリスマス、ニューイヤー休暇から帰ってきていたのだ。彼に案内してもらいながら、日曜の朝市の見物と朝食を頂いた。ストリートフードは庶民の味。搾りたての生オレンジジュースの鮮度はスーパーの「果汁100%」の比ではない。今から飛行機に乗るということで流石に屋台の食事は腹を下すなどのリスクがあるのでと、地元では人気のチェーンレストランに行った。


彼が言うには、やはりアメリカのメキシコ人の姿はメキシコのほんの一部しか表していないという。メキシコ人が皆貧しいかというと、そうでもなく、例えば彼のお世話になっている土木建築ボランティアにも若いメキシコ人はいるが、むしろ大学を出て自分探しの為にやっている人もいれば、普通の仕事に嫌気がさしてボランティアに勤しむ人もいる。いずれもある程度の経済力のある層だ。彼らは日々建設現場近くのテントに寝泊まりして、一つ屋根の下で暮らす。


一方で本当にがむしゃらに仕事をしないと生きていけない人たちというのは、同じ仕事でも10倍の給料が得られるアメリカに渡るのも視野に入れる。かつてはアメリカとメキシコの国境はもっと解放的で出稼ぎの為の出入りがし易かった。ところが80年代以降のアメリカの政策の転換を受けて、それまで出稼ぎに来ていた人たちが祖国メキシコに帰れなくなってしまい不法移民のレッテルを貼られる。不法移民が増えるから国境を締めるのではなく、国境を締めたことで却って移民を不法にしてしまったのだ。メキシコはまだ良い方で、中米も南の方になると若者が二十歳まで生きられる確率が60%という国地域もある。そんな彼らが残って死ぬリスクをとるか、死ぬリスクがあってもアメリカに向かうのかは、必然的な問いなのかもしれない。昨年の移民キャラバンの大移動は世界的なニュースになったが、彼らの境遇を察する人たちは、キャラバンが自分の町を通過する時には激励と寄付を送ったという。


空港への移動手段はホテルからタクシーも考えたが、出発便のあるターミナル2へは地下鉄の乗り換え無しで行けるようだったので、ここは節約して駅まで歩いて向かう。空港も余裕を持って到着し、同僚、上司へのお土産を買って出発を待つ。出発ゲートにて、ランダムではあるが手荷物検査が行われていた。さっきした保安検査所は何だったのかと、手際の悪さに苛立つが、 麻薬の横行するメキシコでは水際の引き締めは必要なのだ。それよりも、そもそも警察と麻薬カルテルの癒着問題をどうにかすべきだと思うが。


6時間弱のフライトは北米大陸の西海岸に沿ってシアトルに戻り、11日間に及ぶ中南米の歴史文化と出会いの旅の幕を閉じる。

1/12/2019


アメリカに出稼ぎに来ているアミーゴたちのイメージしか無かったから、思いの外きちんとした仕事をするメキシコ人に驚く。ホテルの朝食バイキングはパンとフルーツしかなく、この中から何を選べと?と思いながら席に着くと、コックがコーヒーを運んできて、メニューは如何なさいますか?と3種類くらい口頭で伝えられた。分からない時は逆にオススメを訊く。”Que es recomendación? 聞き取れたのが玉子とトルティーヤのナントカだったので、とりあえずそれを頂いた。Basic Hotel と名のつく一泊$40しない中級ホテルだが、お洒落でモダンな内装と落ち着いたサービスは“basic”以上だ。


いくつか目ぼしい公園や博物館だけマークして散歩に出かける。タクシーやバスで行きたい所だけ見て回るのも一つだが、歩かないと分からない地元の日常がある。時には可笑しな習慣も見えて、至る所にツッコミどころが満載だ。街の規模こそ大きいが、小さな町工場や小売店、個人レストランが並び、日本の昭和に近い雰囲気だ。メキシコシティはメキシコでも高地に位置しており、気温は南国のイメージからは意外と低く15度くらいで、軽い長袖で心地よい。草木がそよ風に揺られ解放的。人類史博物館は75ペソ(約$3)で先史時代からマヤ文明の発展までの展示を見ることができる。チチェン・イッツァでも見たが石の加工技術と表情豊かな偶像に文化水準の高さを思い知る。英語の説明文があったりなかったりなので、割と早足で回って1時間強だった。


地下鉄を利用して歴史地区方面へ向かってみる。乗り方はだいたいわかってきた。降りてワンブロックほど行ったところに市場があるはずだが、と思いながら駅の出口を探すや商店街に阻まれる。なんとせっかちなことに、駅構内からすでに市場は始まっていた。カラフルな玩具に搾りたてのジュース、八百屋が所狭しと並ぶ。ひたすらパンツだけを売る店、ゴミ袋の専門店など、一種一店で地元の生活を支える。それを掻き分けながらようやく駅の建物から出る。このエリア全体が商店街で、別に観光地のように忙しなく客引するでもなく、携帯をいじったり食事しながら物を売るゆるい感じは親しみが持てる。


ここからまったり歩きながら歴史地区を目指す。スペイン統治以後に建てられたと思われる古い教会や石造りの高いドームを持つ町役場が下町の風景を見下ろす。これらは美術館になっていたり、軒下を借りて商店になっていたりする。観光地図には無いバザールや公園があり、どの道を通っても賑やかな光景に出くわす。宗教的なエリアでもあり、ある屋台では各家庭に飾るのであろうキリスト生誕を表す赤ちゃんの人形がオーダーメイドで作られていた。程なくしてたどり着いた大広場が、メキシコ国旗で有名なソカロ広場。ここはかつてアステカ帝国の神殿が立ち並んでいた場所で、今は王立宮殿や大聖堂が取り囲む。それら歴史建築物が小さく見えるほどに大きな広場だ。全くの偶然だが、午後2時少し前、折しも衛兵たちによる国旗掲揚式が行われている真っ最中だった。メキシコ国民の誇りを表すかのような20mを優に超える国旗が風を受けて翻る姿は圧巻だ。


見所はどこまでも果てしなく続くが、時間も考えてとりあえず駅方面まで戻ることにした。途中でみつけた床屋でメキシコの流行りの髪型にしてもらう。日頃から髪のセットには疎く、一度切ったらボサボサで手に負えなくなるまで放ったらかしだが、男性成人料金50ペソ($2.50)だったので怖いもの見たさでお願いした。スペイン語がよくわからないけど大丈夫ですか?とスペイン語で前置きしてから、予め翻訳しておいたオーダー文章を見せて切ってもらった。ここまで切るか?襟足の形はどうするか?などと時々ジェスチャーで確認される。15分もかからなかっただろうか、なかなか男前に仕上がった。外には順番待ちの男性達が数人座って待っていた。


さて、来る時に出てきた駅はこの辺りだったかと探し回るも見当たらない。どこからが車道か分からないほどせり出した屋台の軒先が、通行人を否応なく市場に導く。その奥に駅の改札があったような記憶だが、まるで時間が経つと形を変える迷宮のように、肉屋や果物屋がタコスを焼く熱気の中でどこまで行っても続いている。外の光を頼りに反対側まで出てしまったので、仕方なく隣の駅まで歩くことにした。幸いにも数ブロック先にあるようだ。治安は良くなさそうな雰囲気だが、さっと切符を買ってプラットホームを目指す。構内でみつけた小さな屋台で棒状の揚げパンを買う。揚げパンを売るお母さんの後ろで7歳くらいの男の子が仕事に付き添う。12ペソ($0.10)で素朴な味が美味しい。


1/11/2019


リマに戻る便は朝8時で、ホテルからの無料送迎があったのでお願いしておいた。慣れない環境で相変わらず深夜に何度か目を覚ましたが、身体は順応してきたようで高山病による頭痛はほとんど感じなくなっていた。


小さな空港なので手続きはスムーズにいった。ひとり旅は大体バックパックに小さなリュックを詰めていくスタイルだ。あんまり土産を買いすぎると容量オーバーになるが、預け入れの手間も無いし、バッゲージクレームでの時間もスキップできる。山岳の地方空港だが一応は国際空港。日本人の学生グループを見かけたが、恐らくここからウユニ塩湖でも有名なボリビアのラパスにでも飛ぶのだろう。さて出発ゲートで時間を待っていると、メキシコ人の親子に再会した。マチュピチュツアーでたまたまクスコからオリャンタイタンボまでの行程で行き帰り同じバスに乗り合わせた二人だ。休暇を利用してお父さんと一緒にペルーを二人旅していて、リマ行きの僕と同じ便を偶然にも取っていたようだ。息子さんの方は学校で英語を勉強しているようで、旅の思い出を話してくれた。彼らの出身のオアハカに来るときは連絡してねと言ってくれ、インスタグラムを交換しておいた。飛行機は定刻を少し過ぎて出発。離陸した飛行機は高度を上げていくがアンデスの山並みも平行して標高を増すため、雪に覆われた山脈の高みを舐めるようにして飛んでいく。


旅も終盤、シアトルまでの復路で今回寄るのはメキシコの首都、メキシコシティ。シアトル~ペルー間の直行便がなかったので、結局どこかで長い乗り換え時間を費やすより、その街に滞在した方が楽しいと判断。メキシコシティは東京、ニューヨークに並ぶとも劣らないメガシティ。大きなビルこそまばらだが、下降していく機体の窓からは地平線の彼方まで広がる街並みが霞の向こうまで見えた。市街地と空港の距離が最も近い空港の一つともされており、到着してからの移動手段もバス、タクシーでも30分、地下鉄も時間帯によっては治安が心配されるところだがとても便利だ。別に急ぐ理由もないし地下鉄でホテルまで向かってみることにした。チケットは一部区間を除き5ペソ($0.25)で改札を出るまで乗り継ぎし放題。だがこれがまた大冒険となった。


まず空港から地下鉄駅を探すのに東西に伸びる巨大なターミナルビルを往復。やっとの事で見つけた地下鉄駅だが、路線図で「空港」とは書いてないので今どの駅なのかわからない。極め付けに券売機のおばちゃんは英語は全く話さない。どうやら複数路線を乗り継いで行くみたいだが、とりあえずこの駅には探しても一路線しか走ってない様だったので、どちらかに駒を進めてみて状況を把握する。次に乗り継いだ駅から段々と構造が分かってきたが、3駅進むと思っていた3駅目が違う名前だ。路線図にない駅もあるのかと思って、もう一駅過ごしてみるも、また違う駅だ。流石におかしいと思って乗客に確認して、反対方向だと気づく。そんなこんなで、降りた駅でさっき撮っておいた路線図の写真と睨めっこしながら次の駅を探す、その路線の方面を探す、その方面行きのプラットホームを探す。明らかに他の乗客と動きが違う僕を見つけた一人の青年が声をかけてくれた。英語ができる彼は目的地付近の駅まで同じ方向に行くらしく、誘導してくれた。地下鉄って原理は簡単なようでも、土地勘のないところで言葉が分からないだけでこうも難しい乗り物になるのだ。ティオと名乗る彼に礼を言って別れる。


やっとの事で最寄りの駅までたどり着く。最寄りと言ってもここから1キロ弱をまたホテルまで歩くのだが。ここまでで空港を出てからすでに1時間半が経過していた。ホテルに着いたらそのままベッドに直行してしまいそうだったので、途中で見つけたメキシカンレストランで休憩がてら食事をとることにした。顔の険しい店主らしき人にテーブルに案内されたが、”Mucho cansado. (今日は疲れたよ)”と一言交わすと笑顔が溢れる。


街並みは思っていた程都会の装いではなく、埃立つ下町の雰囲気だ。人はメキシカンと思って見ればメキシカンだが、改めて見てもペルー人との違いがわからない。日本人と韓国人が違うように、彼らにも違いがあると主張するのだが

1/10/2019


今朝も3時頃に頭痛で目が覚めた。高山病は病と名前こそ付いているが病気ではなく酸素濃度や気圧の変化による体の不調を引き起こす状態だ。とりあえず水を飲んで深呼吸しながら床に戻る。昨日は低地まで降りた途端に楽になったから、本当に高低の差だけなのだろう。クスコにいる間は相当ペースを落として行動した方が良さそうだ。


今日 丸一日を自由な時間に充てていたのでとりあえずクスコの中心街を散策してみる。クスコはインカ時代の首都としての役割を果たしていた街で、石畳のアルマス広場を中心に街全体を上空から見ると神聖な動物とされたピューマを模った区画デザインがなされている。今回は訪れなかったがナスカの地上絵といいクスコといい、飛行機のなかった時代に上空からの見え方を意識していたところから、信仰する太陽神へのメッセージの意味もあったのではないかと推測する。


広場で写真を撮っているとホアンと名乗る一人の青年が話しかけてきた。どうやらクスコツアーを提案しているようだ。ボランティアでやっていて1時間程度、料金は気持ちで構わないと言う。どのみち街を見て回るつもりだったのでお願いした。英語でもスペイン語でもできると自分では言うが、ほぼスペイン語だ。僕も分かった振りをしながら時々こちらからも質問して歩いた。昔の回廊が残る坂道を登りながら次第に民家が立ち並ぶエリアを通って丘の上を目指す。市内散策と言えど標高3400mでは登山も同じだ。時々休み休みペースを見てくれる気遣いは有難い。てっぺんまで来ると、広場から見えていた白いキリスト像に辿り着く。ブラジルのリオのキリスト像を思わせる佇まいで優しく街を見守っているのだ。ここからクスコの赤く染まる屋根瓦の街並みが一望できる。新年の何かなのか、明日は街のお祭りでその準備を進めているそうだ。知らなかったのだからしょうがないが明日の便でクスコを去る。途中で水分補給の為に小さな屋台で水を買う。お金がないようで彼の分も買ってやる。


岩山だけかと思っていたが、丘の上には果てしなく草原が広がっていた。馬の写真も撮れるよと言っていたのかと思っていだが、ここから馬に乗って遺跡の案内をするという。1時間のツアーにしてはえらく盛りだくさんだなと思いながら2人分の乗馬料金を払って昨日の雨の残ったぬかるみをパカパカ登っていく。彼は巧みに馬を操るが、これがまた言うことを聞かない。同じところをくるくる回りつつ軌道修正に躍起になる。彼の馬が走り出したのを見た僕の馬も急に走り出すから、振り落とされないようにしがみついた。鞭を叩いてもっと速く!と言われても、両手がバランスを取るのに必死で鞭など振るえないが、叩かなくともお尻の方に手をやると叩かれると思って自ら走り出すのだ。途中、アルパカの家族とすれ違いながら、プレインカ(インカ以前)の遺跡にたどり着いた。ここでも色々と説明してくれたが、そのあまりの熱心さに感心さえした。今22歳で将来の夢はマチュピチュのガイドをすることだそうだ。


馬具が擦れて足がヒリヒリしていたが、まだ見せたいものがあるからと更に草原の中を登っていく。折しも雹が降ってきて、瞬く間に雷雨となった。道という道が川になる。木陰を見つけてしばらく待っていたが雨が止む気配はない。まだ進むつもりらしかったが、流石に身包み全てずぶ濡れになり寒くなってきたので引き返すことになった。来た道を下り始めた頃に雨が弱まる。ぬかるみが水溜りになり馬の足取りが泥を跳ね、もう今更何が汚れてもどうでも良い。下の馬乗り場に戻る頃には3時間くらい経過していた。


タクシーを拾ってアルマス広場まで戻る。身体はブルブルだ。戻ったらランチにしようと言われたが、この流れだとまた彼の分も払わされそうだったので、一度ホテルに戻るから広場で解散でいいよと提案した。車内で「OK、じゃあ今日は3時間分のガイドと、雨で濡れて疲れた分も合わせて200ソル($60)でいいよ」と彼。なんでやねん、というか俺もずぶ濡れだし!と心の中で叫びながらその場は聞き流した素振りをしておいたが、嫌な予感がしたので財布の手持ちの札を半分ほどポーチに移しておく。


広場に着くと今度は$200だと言う。いやいやいや、ボランティアといったではないか。予想以上に濃い内容で充実してたのもあり、チップも弾むつもりではいたが、$200なんて相場を高く見積もってもあり得ない。銀行まで連れて行くからと言うが、金はないと強く出て手持ちの$40と小銭をやり、レシートしか残っていない財布を見せて渋々諦めさせた。クスコ郊外の村に住んでいて、親は死別したと言う。どこまで本当かは定かではないが、暮らしが豊かではないのは確かだろう。高い安いはともかく、一人でぶらぶらしてても(いろんな意味で)こんな体験はできなかっただろうから、全力で案内してくれた彼の熱意に対して、できる限りのお礼をした。


ホテルで休んで着替えてから近くの市場に行ってみた。アルマス広場周辺は歴史地区として綺麗に整備されているが、路地を進んで行くとこの町の日常に出逢う。香辛料や目の前で捌く豚肉、よくわからない強烈な臭いのする干物、所狭しと並ぶ色とりどりのアンデスの衣類。屋台でチキンスープを頂く。レストランのような凝ったものではないが6ソル($1.80)で家庭的な優しい味に癒される。


クスコを歩いているとすぐに見つけるのが、アンデスの衣装をまとった小柄なお婆さんたち。三つ編みの髪にポンチョ、色鮮やかなスカートに身を包み、大きな風呂敷に商売道具やらを包んでトコトコ歩いている姿は人形のようで可愛らしい。インカ時代からの伝統衣装で、ケチュア語を操る彼女たち民族の誇りだ。旅先でよくある物売りにしても、手織りのミサンガに自分で描いた絵画、乾いた果物に施した手彫りの彫刻など芸が細かい。果物の彫刻はひとつひとつ一週間ほどかけて仕上げるというから、あまり値引きを迫るのも申し訳ないくらいだ。上品で美しかったが安くはなかったので、写真だけ撮らせてもらいチップを渡した。普段はわざわざ利用しないが乗馬でかなり靴に泥を被ったので、靴磨きをする人を見つけてお願いした。革靴を磨くイメージだが、ビクトリアと名乗るおばちゃんは乾いた土の染み込んだスニーカーも慣れた手つきで磨き上げる。(2ソル/$0.60) 


南米の治安事情は良くないと一般的にイメージされるが、ペルーでは観光地としての整備が進み観光警察があちこちで目を光らせる。ピピっと笛を吹き、そこ入るな!そこ座るな!車来てるぞ!とお節介なくらいだ。ユースホステル等でない中級以上のホテルにはほとんど警備員がついている。スターバックスでさえ警備兼コンシェルジュが来店客の為にドアを開け閉めしていた。基本的な手荷物の管理と、一人歩きするべきでない場所と時間さえ当たり前に意識していれば大きなトラブルになることはないだろう。(ちなみにクスコは、観光地エリアで夜出歩く人はほとんどが観光客で、ペルーいち治安が良いらしい。)