春本番を向かえ花の主役も、サクラからチューリップに変わりつつある今日この頃。
ここ数日、「各地でチューリップの花、折られる」のニュースがテレビで盛んに報じられる。 丹精込めて育て、日々咲くのを楽しみにしている住民に対し「何と言うむごい仕打ちを、、。」と心が痛む。
花を愛でる事、それは自身だけの癒しではなく、周りの、そして道行く人達にも同じように与えてくれる。 多くの人はそんな「純」な気持ちで日々植物と向き合っている。
種(球根)から育て、半年も前から花咲く瞬間を心待ちに待つ、自然の摂理で美味く咲かない場合もあるが、その時は「自然相手だから」と納得がいく、がしかしこれが「作為的」になると話は別だ。
その「怒り」の矛先が「姿見えぬ犯人」ばかりでなく、ともすれば「人間不信」に陥ってしまう。
「花の首を折っている」と同時に「育てた人の心」も同時に折っているのだ。
物言わぬ植物だから何やっても良いというのではない。
人間の聞こえないところで、犬や猫と同じように悲鳴を確かにあげているのだ。
若葉台でも「里山の再生」と称し、生えている木をワザワザ伐採し、幼木を植える「愚作」を堂々と行政が行う。 枝打ちだけで良い筈の樹木を、胴元から伐採する。 山菜のシーズンを向かえ、残さなければならない新芽まで掻きとってしまう。
昔日本人が持っていた「自然への敬意」はどこに言ってしまったのだろうか。
この様な光景をニュースや身近で見る度、虚脱感を覚えてしまう。
ここ数日、「各地でチューリップの花、折られる」のニュースがテレビで盛んに報じられる。 丹精込めて育て、日々咲くのを楽しみにしている住民に対し「何と言うむごい仕打ちを、、。」と心が痛む。
花を愛でる事、それは自身だけの癒しではなく、周りの、そして道行く人達にも同じように与えてくれる。 多くの人はそんな「純」な気持ちで日々植物と向き合っている。
種(球根)から育て、半年も前から花咲く瞬間を心待ちに待つ、自然の摂理で美味く咲かない場合もあるが、その時は「自然相手だから」と納得がいく、がしかしこれが「作為的」になると話は別だ。
その「怒り」の矛先が「姿見えぬ犯人」ばかりでなく、ともすれば「人間不信」に陥ってしまう。
「花の首を折っている」と同時に「育てた人の心」も同時に折っているのだ。
物言わぬ植物だから何やっても良いというのではない。
人間の聞こえないところで、犬や猫と同じように悲鳴を確かにあげているのだ。
若葉台でも「里山の再生」と称し、生えている木をワザワザ伐採し、幼木を植える「愚作」を堂々と行政が行う。 枝打ちだけで良い筈の樹木を、胴元から伐採する。 山菜のシーズンを向かえ、残さなければならない新芽まで掻きとってしまう。
昔日本人が持っていた「自然への敬意」はどこに言ってしまったのだろうか。
この様な光景をニュースや身近で見る度、虚脱感を覚えてしまう。