今日のこちらの地域は、

朝から雪が舞い🌨️

風が舞い🌬️


“春の匂わせ”は感じられない春分の日

迎えました。



皆さまいかがお過ごしでしょうか?

穏やかな日、夜を迎えておりますか?



私はというと、朝から

夜になっても少しドキドキと

緊張しております。



いつものようにSNSを開くと、

春分の日(宇宙元旦)に関する情報が

たくさん入ってきます。



それを、好んで見ている

という自我の視点の自分もいますが、



今日の、この春分の日が

自我意識の視点でも


きっと魂意識の視点でも

きっと宇宙意識の視点でも


とても大切な起点の日となるのだろうな



ドキドキ

ビリビリ

ゾクゾク


なにやら一息には捉えきれない感覚の中を

漂っています。




外側からの情報を眺めながら



改めて

自分は、どういう世界を見たいんだった?

自分が今意識的に大切にしたい気分ってなんだった?

何を意識的に選んでいく?

何を決めていく?


そうやって無意識の眠っている部分に

強制的にメスを入れられるような


少なからず抉られるような感覚が...

しないでもないですw




そもそも


何にも染まれないし

何にも馴染めない。


何にも合わないし

何にも合わせられない。


何者にもなれないし

何者でもない。



地球的な何かの役割になろうとするとき


そこには、感じる感覚という意識だけがあって

実は実体なんかないんだ

ホログラムの世界だ

と、気づくきっかけがあってから



あ~そっか、

染まろうとしても染まれないのは

どこかで知っていたからなのか~と


今までの記憶の中のどんな自分も(?)

ゆるせるタイミングにもなりましたし、

少なからず、自我意識で

できない自分を攻撃するという

ことがなくなりました。


あったとしても、それらと一体化していないので

気づけるようになりました。


(あ~それ(思考)が騒いでるな~)

みたいな感じで



そんなもどかしさや憤り

無力感や無価値感や罪悪感という

小さな自我の不確かな意識の中に縛られて

生きるぐらいなら



自分の色で生きていきたい。




そんな自覚とともに
私事ですが
1年ちょいかかって
やっと本日、開業届けを出しました。

出してしまえばなんてことなかったのですが、

自分の中での決意を
自分の宇宙へと表明するための“しるし”として
行動で提示したつもりです💫

自我の記憶の関連性のない連鎖から離れて
あなた(宇宙)を信じるぜー
と、宇宙と手を取り合うみたいな意味合いも
ありました。

今日の春分の日というのも
私としては意図的でした。


自分自身との約束事を思いだし
いざ、やっていきます!
腹をくくります泣き笑い
という宣言のようなものでもありました。



なぜなら、いつだったか

小さくなるな!気合いを入れろ!本気でやれ!


と、突然頭の中に
語尾強めにそのような言葉が降りてきまして
そらもう、ヅカーン!ときまして
慌ててメモ書きしていたのを
最近改めて見直す機会がありました。


あのとき、その言葉を受け止めて
なぜだか“スサノヲ”をイメージしました。


え、スサノヲが降りてきた??


いいえ、違いました。
降りてきたわけでもなく
神と同一化していたわけでもなく
自分の中に、スサノヲがいたのです。



は?嘘だろ?
と思われるかと思いますが
けっこう真面目ですちょっと不満


行動で示し
宣言をした手前
半端なことをしようものなら

自分の中のスサノヲから
すかさず、喝を入れられるでしょう。

自分の意識の現れなので
こわいという気持ちはないのですがw




外側の現象も

自分の思考や感情も

肉体ですら、実体はなく



意識エネルギーを自分の本質ととらえたとき

人として?

存在そのものとして

過去現在未来という記憶の中のその人を

すべてを取っ払って

信念観念もぜんぶ取っ払って

ただただ、まっすぐにその存在を認めたとき...



ただ在るだけになる。



その存在があるだけになる。




ただ在るだけで世界に喜ばれ

ただ在るだけで世界を喜んで

条件などなにもなく愛されていて

無限に充足が与えられていて

存在すべてに感謝している状態



それが、本来のわたしたちスター


 

これからのどんな変化の中を

体験するとしても

土台である前提がまん中にある限り


外側の現象、言語思考や感情などとも

一定の距離を置き

観察者の立ち居ちで

気づき続けることが

できそうです。