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藤井浩行の「よりよく生きる力を育む」ブログ

※「夢サポートクラブ」からタイトルを変更しました(2011年11月20日) 
※「『貢献する力」を生きる』藤井浩行のブログ」からタイトル変更をしました(2019年6月30日)

コミュニケーションはお互いに解りあうためのツールですが、ときどき「こんなこともあるんだなぁ」ということを経験することがあります。


「14時からのミーティングよろしくお願いします」
これは先日のある人のラインメッセージです。

この日は14時からZOOMミーティングの予定があったのです。
僕はてっきり「ミーティングに参加するので、よろしくお願いします」という意味だと思ったのですが、14時になってもその人はミーティングに現れません。
「おかしいなぁ」と思いながらもミーティングをスタートさせました。
結局その人は欠席だったのです。

実はこれには伏線がありました。
前日の19時にも別のミーティングがあったのですが、その人は頭痛のために欠席していたのです。
午前中のやり取りでしたが「14時からのミーティングよろしくお願いします」の前には次のようなやりとりがありました。

僕「体調はどうですか?」
その人「昨日よりは良くなりました」
僕「すっかり良くなるまで、ゆっくり休んでくださいね」
そして、その人の「14時からのミーティングよろしくおねがいします」なのです。

今思うと、その人は「それではお言葉に甘えて欠席させてもらうのでよろしくお願いします」の意図だったのだと思います。
僕は14時のミーティングの出欠とは無関係な会話として「身体はゆっくり休めてくださいね」と言ったつもりだったので、当然のように「昨日よりも体調が回復しているので参加します」の意味で受けとったのですが、大違いだったようです。
お互いが自分の都合の良いように解釈していたんですね。
それがコミュニケーションのすれ違いになりました。
これが対面でのやりとりだったら、このような行き違いは無かったと思います。
言葉以外のノンバーバルなメッセージをキャッチしていたと思うからです。

対面での会話の場合は、言葉そのものだけでなく、声の抑揚や表情や身振り手振りなどからも情報を得ています。
しかしラインでは、文字情報がすべてです。
絵文字などを使う事で表現を豊かにできますが、ビジネス上でのやり取りではあまり使わないでしょう。
しかも会話のような形でのやりとりで、いろんな部分が省略されていることが多いと思われます。

誤解や勘違いがあってはいけないと思う時は、手紙を書くようにあいまいな部分ができるだけないように気を配りますが、少し気を許せるぐらいの相手だと、どうしても文章を簡単に書いてしまいます。
読む時もざっと読んでしまいます。
そのような油断から、ミスコミュニケーションが起こるのでしょう。
相手の文章は自分の文脈で読むのではなく、相手の文脈で読むように気をつけたいと思います。
 

日本に旅行に訪れた海外の方は、とてもきれい国だと言います。
サッカーワールドカップでの日本サポーターの試合後の掃除に、世界中から賛辞が送られたりします。
しかし、街を歩いているといたるところにゴミが落ちているのも現実です。
正確には、捨てられています。

最近、鍵山秀三郎さんに触発されて街中のゴミに意識が行くようになりました。
鍵山秀三郎さんのことをご存じの方も多いでしょう。
イエローハットの創業者で元社長、会長を歴任された方です。
お掃除道を実践し「日本を美しくする会」という団体を立ち上げた方でもあります。

捨てられているゴミで一番多いのは、たばこの吸い殻です。
火が付いたままポイっと捨てられたと思われるものもあります。
たばこの外箱が捨てられていることもあります。
その他には、カップラーメンの容器、使用済みの割りばし、お菓子の袋、飲み物のカンなどが多いです。
たばこ、飲み物(酒含む)のカン、お菓子・食べ物系がほとんどです。

「日本を美しくする会」の皆さんのような立派なことはできないので、せいぜいビニール袋を持ち歩いてちょっとしたゴミを拾うぐらいですが、とても全部は拾い切れないです。
それでも鍵山さんの言葉である「ひとつ拾えば、ひとつだけきれいになる」に力づけられて毎日少しずつ行うようにしています。

鍵山さんは、汚れは心のすさみの現れであると言います。
路上や公園に捨てられた、吸い殻やお菓子の袋などは、心のすさみの現れなのかもしれません。
ひとつ拾っても、次の日には、また別のゴミが捨てられています。
そういったポイ捨てのゴミが無くなった時、素晴らしい世の中になっているのだと思います。
地球上に、幸せな人が増えたら増えるほど、ポイ捨てのゴミは無くなっていくのだと思います。
その為に役に立つ人間でありたいと思います。

先日、ある企業の会議に参加させていただきました。
一般的な部署ごとの会議とか経営会議とは違う会議体で、「グループミーティング」と呼んでいます。
そこで扱うのは、自分自身が「課題」と認識しているものです。
ランダムに構成されたメンバーが部署や専門性に関係なくグループになって、お互いをサポートし力づけ合うというものです。
具体的なアドバイスをするというよりも、質問、提案、フィードバックによって、本人が自分で気づくことでアクションを選択してコミットするというものです。
当然、上司と部下が同じグループになる可能性もあるのですが、上司が部下に意見やアドバイスを押しつけると言うようなことは起こりません。
大前提として、お互いは「対等の立場」であることが了解されているのです。

「力づけ合う会議」は決して「仲良しグループ」ではないので、時には厳しいフィードバックなどもありますが、それが愛情や信頼から来ていることが感じられるので険悪な雰囲気や暗い感じになることはありません。
「その人のために」という貢献が、その前提になっているのです。
なので、どっちが正しくて、どっちが間違っている、、、という議論にはなりません。
真逆の意見があっても、それを選ぶのは本人です。
「その人のために役立つ」ものはすべて正しいのです。
また床(前提)に「安心・安全」(心理的安全性)があるので、発言(シェア)は率直です。
そのため、短時間でも効果的な結果を生むことができます。

その「場」に働く影響力の事をノーム(暗黙の了解)と言っていますが「オープン、誠実、主体性」といったノームが働いていることが感じ取れます。
この企業が長年かかって育んできた「風土」です。

間近で見て来て、その取り組みには感動させられ、尊敬をしています。

社員同士が愛情と信頼で結ばれ、Win-Winの関係性を創っています。
これはお客様に対応するときの「在り方」にも現れることでしょう。

一般的な会議でよく見受けられるのは、参加者が自分のために発言するということです。
「自分の意見を通すため」「自分を守るため」「自分を有利にするため」などなど。
「グループミーティング」(力づけ合う会議)では、課題を抱えているその人のための発言(シェア)をします。
そこには「承認」と「貢献」があります。そのような「場」は、とてもパワフルです。

この企業がこれまで取り組んできたキーワードをあげるとしたら以下の点でしょうか。

・企業理念の明確化と浸透(価値観の共通認識)
・顧客本位組織創り
・人としての「在り方」を大切にする
・ストロークの実践(コミュニケーションを大切にする)

・相手のために貢献する

私たちは人生において、自分(の自我)を守るために様々な鎧を身に着けると言います。

ものごとの捉え方のフレームと言い換えても良いでしょう。

自分の目の前に、過去の体験から自分が創ってきたフィルターがあって、それを通して物事を見て(認知して)いるイメージです。

「~は好き、~は嫌い」「~が得意、~は苦手」「~は良い、~は悪い」

などなど、私たちは、たくさんのフレームを持っています。

それが、良いとか悪いと言うのではありません。

自分を守るために、創らざるを得なかったものもあるでしょう。

それは必要なことだったのです。

 

その中でも「生存のフレーム」というものがあります。

「安全」のためのフレーム・・・冒険しない

「正当化」するためのフレーム・・・正しい理由を示して行動しない

「合理的」なフレーム・・・理に適う事しかしない

「勝ち負け」のフレーム・・・自分の正しさを証明しようとする

「責任を避ける」ためのフレーム・・・環境決定論・幼少期決定論

 

「性格」というものも、このようにして形成されたものの一つと考えることができると思います。

 

これらが、自分の人生において効果的に機能している場合はそれでよいのですが、時として自分の可能性を制限していたり、生きづらさを創ったりすることがあります。

そのような場合は、積極的にフレームを書き換えるトレーニングをすることが必要かもしれません。

 

今から30年ほど前(30歳くらい)のボクは、「勝ち負け」にこだわり「責任を避ける」ために親のせいにし、「合理化」して無理に自分を納得させながら、運命に流されるままに生きていました。(環境決定論・幼少期決定論)

浮草のように漂っていたように思います。

とても殺伐とし、ストレスがたまる生きづらい毎日でした。

 

フレームを書き換えるきっかけになったのは、それまで「自分を不幸にした人たち」と捉えていた両親に対して感謝できるようになったことです。

また他者との関りにおいて常に「勝ちー負け」の発想だったものが「勝ちー勝ち」に転換したことも大きく影響しました。

そして「原点論」の元になっている「自分が源泉」というものごとの捉え方に出会ったことです。

「すべての結果は自分が創っている」

「自分が創った結果なら自分が創り変えることができる」

 

その後は「親への感謝」「貢献」「自分が源泉」(原点論)を毎日の生活の中でトレーニングしました。

つまり、新しい「ものごとの捉え方」(フレーム)の習慣化の訓練です。

 

その甲斐があってか一時、物事がとても上手くいっている時期(僕には「成功」と感じられた)があったのですが、毎日が忙しかったこともあり、いつの間にかトレーニングしなくなってしまいました。

今思うと、上手くいっているはずなのに決して「幸せ」を感じていたとは言えないような時期でした。

幸か不幸か、その成功を手放すことになり、裸一貫にもどったのが、間もなく50歳になろうと言う時期でした。

 

人生の後半に差し掛かろうと言う時に、それまで積み重ねて来てやっと手にした成功をすべて失った状態でした。

安堵感と後悔とが入り混じった、とても複雑な状態でした。

その後、ひょんなことから「自分が源泉」の提唱者である鈴木 博氏に師事することになり、再び「自分が源泉」(原点論)をトレーニングすることになりました。

それこそ常にそこに「在る」という毎日でしたので、それまでとはケタ違いに密度の濃いトレーニングになりました。

そして4年前に独立させていただき、現在に至るわけです。

 

「フレーム」が変わることで人生が変わることを、僕は自分自身で経験してきました。

そして「フレーム」によって「幸福度」を高めることができることも経験してきました。

それをまとめたのが「幸せ感性力」です。

「幸せ感性力」とは、「幸せ感度の高いフレーム」を創るということでもあるのです。

 

「過去のフレーム」は自然とでき上がったものではありません。

最終的には「自分が選んで決めた」ものです。

その「フレーム」を、無意識に毎日毎日トレーニングして強化して来たのも自分です。

今、この瞬間もトレーニング中で「強化」しているかもしれません。

 

「幸せ感性力」は、自分にとって未知のものだから冒険はしない

「幸せ感性力」は、自分にとって興味の無いもの

「幸せ感性力」は、自分にとって理屈に合わない

「幸せ感性力」は、自分のこれまでの経験では正しいとは思えない

 

そう言った反応が、自動的に出てくるかもしれません。

けっして、それが悪いという訳ではありません。

非難や批判をしているのではありません。

それぞれの自分の選択だから、自由なのです。

そこに正解とか不正解はありません。

ある意味、どのような選択でも正解です。

 

ただ、もしこれまでの選択とは違うけれども、何か可能性を感じるというのであれば、新しい領域に一歩踏み出してみるのも良いのではないかと思います。

人生に「違い」を創る一歩です。

未知の領域ですから「冒険」です。

 

宣伝みたいになっちゃうので抵抗があるのですが(これは僕のフレームです)、もしよかったら無料のZOOMセミナーをやっているので参加してみてください。

 

【お申込みフォーム】https://docs.google.com/forms/d/e/1FAIpQLSeJ-3MQCbvoWB5L3Lfho_f1nFUiBllNu3xeftolx-EpLi-FwA/viewform

国語辞典でボランティアを引くと「(義勇兵の意)志願者。奉仕者。自ら進んで社会事業などに無償で参加する人」と出てきます。
日本語としての「ボランティア」においては、「奉仕者」や「無償」のニュアンスが強いようです。
チャリティー(慈愛・慈善・博愛精神に基づく公益的な行為・活動)の要素が強いのかもしれません。

ボランティア(volunteer)の語源は、ラテン語の「volo」(ウォロ)にあります。
これは、「自分から進んで〜する」「喜んで〜する」という意味です。
つまり「自主性」「自発性」がその中心となる性格なのです。

僕は昨年の暮れから、ボランティア活動を始めました。
子ども食堂や、学習支援、フードパントリー(食品を無料で提供する支援活動)などです。
いじめや虐待など、子どもの健全な育成に障害となるような問題に対して、何かできないかと考えていたからです。

そこには「やりたい」という「主体性」が確かにあったように思います。
私たちは「主体的」に何かを行う時には「よろこび」が伴うようです。
知り合ったボランティアの人たちに問いかけてみると、その活動によって自分自身が喜びを感じると言うのです。
自分の力を活かして、誰かに喜んでもらうことが、純粋に自分自身の喜びにもなるのでしょう。
「喜び」そのものが報酬なのです。

だから義務感や「ねばならない」でやる活動ではないと思います。
しかし、やればやっただけの喜びや充実があります。
(この宇宙のたった一つのルールは「与えたものが返ってくる」だそうです)

もともと人間は社会的な動物としての構造、しくみを持っています。
ですから人に感謝されることに対して、私たちの脳は快感を得られるようになっています。
また自分自身が自分の善行を認識することでも快感が得られるようです。

私たちは社会的存在として、協調、協力し合うように「貢献」に対する感謝、あるいは「貢献」そのものに快感が得られるように創られているんですね。
なので、僕は「たくさんの人がボランティア活動に参加したら良いのに」と考えています。
人生の中に喜びや生きがいを見出したいと言う人はやったらいいと思うのです。

「誰かのため」ではあるのですが、「自分のため」に是非やったらいいと思うのです。

一人一人の小さな行動から世界は変わっていきます。
僕はそう信じています。
遠い未来かもしれませんが、この活動の先には「愛で満たされた平和な世界」があると信じています。