藤井浩行の「よりよく生きる力を育む」ブログ

藤井浩行の「よりよく生きる力を育む」ブログ

※「夢サポートクラブ」からタイトルを変更しました(2011年11月20日) 
※「『貢献する力」を生きる』藤井浩行のブログ」からタイトル変更をしました(2019年6月30日)

「艱難汝を玉にす」という言葉があります。
研修のファシリテーターをさせていただく中で、この言葉は真理であると確信しています。
その人の「強み」を探究すると、その「強み」が育まれているのが必ずと言っていいほど、その人にとって大きな苦労した時期なのです。
それは僕も例外ではありません。
僕は40歳の時に一つの目標を達成しました。
それはある企業を社長として立ち上げたことです。
その企業は4年で年商6億円の企業になりました。
経営も順調で黒字経営を続けていました。
しかし8年目にグループ企業内合併となり、僕は社長を下りることになりました。
その後親会社の判断で企業売却となり、僕はいろいろな選択肢がある中、会社を辞め、元のグループの親会社にも戻らないことを選択しました。
会社立ち上げの頃に妻を病気で亡くしました。
僕にとっては、すべてを賭けて育てて来た会社でしたが、運命に奪われたように感じていました。
目標として、やっとつかんだ高収入と社会的地位を一気に失ったのです。
その後今の仕事の基礎を学んだ研修会社に入社しますが、最初の5年間はほとんどの仕事が雑用でした。
それこそお茶くみ、トイレ掃除といったものです。
すでに55歳でしたから、ひと言で言うと「お先真っ暗」です。
上場企業のグループ会社で社長をやっていたという誇りや自信が傷つき、なんとも情けないと思いながら日々を過ごしていました。
そして、くじけそうになったことも度々ありますが、その仕事に意味を見出してなんとか続けました。
取るに足らないと思える仕事でも、研修参加者に最良の研修を提供すると言う会社の目的から言えば、お茶くみであろうがトイレ掃除であろうが大切で重要な環境づくりなのです。
だから小さな事にも、誠実な態度で心を込めて臨みました。
今思うと、そんな体験の中で僕はありのままの自分を受け入れるトレーニングをしていたように思います。
以前は自分の存在を肯定するために、たくさんお金を稼いで、社会的な地位も高くしたいと考えていました。それが自分の価値だと思い込んでいたのです。
そして、すべてを失いました。
そんな中で何もない自分を受け入れて認め、大切にすることを学んだのです。
これは体験しなければ理解できない学びだと思います。
現在の僕は何かが有っても無くても「幸せ」は自分次第で創作できることを理解しています。体験したからです。
絶望とも言えるあの体験があるからこそ、今幸せな自分がいると確信しています。
自分自身の「強み」を改めて考えてみると、それは「幸せで在ること」でしょうか。スキルとしては研修のファシリテーション能力だと思います。
そのどちらも、あの頃の体験があるからこそ育まれたのでしょう。
目の前に起こってくることに誠実に対応することで、その人の長所が磨かれ、潜在する能力が開発されて、後になってそれが強みと認識されるようになるのでしょう。

「自分らしく、魂が喜ぶように生きる」とはどのようなことでしょうか。

「命知の原風景」と呼んでいる絵があります。
「命知」とは「自分の使命を知る」と言う意味で「命知の原風景」とは「自分の使命を知った時の心に残る風景」ということです。
そしてその場面は「自分の魂が喜んでいるような場面」です。

どのようにして魂が喜んでいるかどうか分かるのでしょうか。
実は感情がそれを教えてくれます。
嬉しさ、充実感、喜び、やりがい、、、などの感情を強く感じている時は「魂が喜んでいる時」です。

その体験をしている時こそ、あなたが「使命を生きている時」です。
さらに言うならば「存在理由」を生きている時であり、そのために生まれて来たのです。

「今を生きる」ことの大切さをいろんな人が言っていますが、僕にとっての「今を生きる」とは、「今自分は使命を生きているか?」という自分への問いかけです。
生きていると、私たちは瞬間瞬間、さまざまな選択を迫られます。
その時に「今自分は使命を生きているか?」「魂は喜んでいるか?」と問いかけ続ける事こそ「今を生きる」ということなのです。

自分の「存在理由」「使命(ミッション)」を言葉で明確に認識していることは、とても有益です。
その言葉を「パーソナル理念」と言っています。
常に「パーソナル理念」と真摯に向き合い、それを生きているかどうかを問いかけ続けること。
それが価値ある人生の創造につながっていきます。

「自分らしく、魂が喜ぶように生きる」とは、その事を言っています。

米国ミズーリ大学のケノン・シェルドン教授は主観的幸福感の研究が専門で、幸福感、モチベーション、自己決定理論、パーソナリティ、ポジティブ心理学の分野を研究しています。

氏はある調査を行いました。
481名の大学生を対象に、人生の満足度やポジティブな感情の度合いについて6週間ごとに3回、調査をしたのです。

そこで分かったのは「前回からの6週間で、自分の人生を変えるようなポジティブな変化がありましたか?」という質問に対して「あった」と答えた人ほど、精神的に安定していて幸福度が高い傾向があるということでした。

回答者にとってのポジティブなできごととは「新しい友人ができた」「ヘアスタイルや服装を変えた」「棚ぼた式に遺産を相続した」などと多岐に渡りましたが、そのインパクトの大きさにはかなりの違いあるようです。
「棚ぼたの遺産相続」は誰にとってもラッキーで大きな出来事でしょうが、ヘアスタイルの変化は人によっては取るに足らない「当り前」のことかもしれません。

つまり幸福度を高めることと、起こったことが客観的に見てどうかということはあまり関連がなく、他人にとってはつまらない事でも自分が幸せだと思えは、それでいいようです。

僕は以前から「幸福とは主観的なものだ」と経験的に仮説を立てていましたが、それを支持してくれるような理論もあるようです。

私たちは人それぞれ、目の前に独自のフレームを持っています。(イメージですが)
フィルターのようなメガネと考えるとイメージしやすいかもしれません。
私たちには瞬間瞬間さまざまな出来事が起きていますが、それをフレーム(メガネのフィルター)を通して認知しているのです。
人それぞれの物の見方や捉え方と言えるでしょう。

例えば「幸せ」についてのフィルターを考えてみましょう。(人はものごとそれぞれについて、たくさんのフィルターを持っています)
「幸せのメガネ」のレンズの色が濃すぎて「大きな幸せ」しか見えない人と、レンズの色が薄くてどんなに「小さな幸せ」でもくっきり見える人とでは「幸せだなぁ」と感じる(反応する)回数が違うでしょう。
生活や人生において「幸せだなぁ」と実感できる回数が多い人は少ない人よりも幸福度が高くなると考えて良いでしょう。

レンズフィルターの濃さ(フレーム)は人生を生きてくる中で身につけてきたものです。
必要があって身につけたものなので、それ自体に良いも悪いもありません。
だけどレンズの色が濃すぎて、特定の物しか見えない(視野が狭い)ことが行き過ぎているようであれば、レンズの色を薄くすることも必要かもしれません。

今持っているフィルター(フレーム)は環境や経験によって自然に創って来たものかもしれませんが、それを意図して自分にとって好ましいものに変えていくこともできるのです。

そのためには「トレーニング」が必要です。
「トレーニング」の第一は「気づき」です。
「小さな幸せ」に気づいて、その事に感謝する(行動)ことです。
「気づき」→「行動」を何百何千何万回と意図して繰り返すのです。
(このプロセスは自己暗示と言えるかもしれません)
それが「トレーニング」です。
そうしているうちに自然と意識しなくてもできるようになってきます。
新しいフィルターの色・濃さ(フレーム)が形成されるのです。

今持っているフレームは何年も何十年もかけて、何万回何十万回と無意識に繰り返して創ってきたものです。
書き替えるためにはそれなりの「トレーニング」が必要です。
簡単ではないかもしれませんが、しかし書き替えることはできるのです。

ただ気をつけなくてはいけないのは、書き替わった思っても油断するとすぐに元に戻ろうとすることです。
なんせ何年も年十年もそうしてきたのですから,,,。
元に戻る方が楽なのです。
だから、トレーニングをし続けることが重要です。

僕の体験をお話しします。
僕は現在64歳ですが、32歳になるまで親の事が大嫌いでした。
特に母親との関係はひどかったです。
それは自分が親の犠牲者になっていると考えて思い込んでいたからです。
「自分は親の犠牲者」というフレームをガチガチに創っていました。
何かうまくいかないことがあると、親との古い出来事を思い出してはそのことに責任転嫁していたのです。
しかし32歳の時にある研修に参加して自分と向き合ってみて、どれだけ親の世話になり愛情を注いでもらっていたのかを思い出すことができました。
見えなくなっていた部分に気づくことができたのです。
感謝が自然と湧き上がってきました。

両親は自分の外世界の象徴です。
つまり親との関係は、他者との人間関係や社会との関係に反映されています。
研修後は親との関係はもちろん、他者との関りも肯定的に変わりました。
それ以来、ずいぶんと生きやすくなりました。
今でも、毎日、感謝することを続けています。

「足るを知る」という言葉がありますが、それは今ある幸せに気づくことだと思います。
つまり「小さな幸せに気づく」と同義だと考えています。
毎日毎日たくさんの小さな幸せを実感しながら生きていたら、それはとても大きな幸せになるでしょう。
「足るを知る」は正式には「知足者富」と言い「(物質的に貧しくても)満足することを知っている者こそが、精神的に豊かであり、真に富んでいると言える」という意味のようです。

そしてそのような人は実際に経済的にも富んでいくように思います。
なぜなら「知足の人」は人間関係や仕事も円満で円滑と思われるからです。

私たちは自分自身についても「知足」を忘れてしまっていることがあります。
自分の短所や苦手なことばかりに気を取られて「自分はダメな奴だ!」と自分自身をディスカウントしていることはないでしょうか。
実は素晴らしい部分、得意な部分がたくさんあるのに、それは「当り前」になっていて見えず、「欠けている」部分にだけ焦点があたっているような場合です。
自分の良いところを見るトレーニングも大切ですね。

よく「幸せになる」と言いますが、この言い方は幸せになるために何か条件がいるように感じます。
今は幸せではなくて、何かが満たされてはじめて幸せになれるイメージです。
しかし幸せは「在る」ものではないでしょうか。
「在る」ものであれば、それは今すぐにそうなります。
自分が宣言すればよいだけですから。
「私は幸せで在る!」と。

「私は幸せで在る!」をトレーニングして、毎日を幸せに生きてゆきましょう。
 

先日「横手南中学校5期・同期会」への参加のために帰省しました。
最近になって、やっと時間と心に余裕が持てるようになったので初めて、このような会に参加することにしました。
実際には5年前の還暦の時にも企画があったのですがコロナで延び延びになっていたのです。

50年ぶりに会う友人もいて感慨ひとしおでした。
不思議なもので50年という時間の壁はあっという間に無くなりました。とても温かい時間を過ごすことができました。
子供の頃の友達とは、こんなに一瞬で溶け合うことができるのかと不思議でした。
当時、何の邪念も無くつきあう事ができたからだと思います。
大人になって随分と警戒心や用心を身に着けたのだろうと思います。

当時はそんなに親しくはなかった人とも交流でき、新しい友人が増えたような感じです。
当時その人が僕のことをどんな風に見ていたか、そんなことが聴けて面白かったです。

50年ぶりで校歌を歌いました。
メロディを聴いていると、だんだんと記憶が甦りました。


ひとすじの道

みちのくの山 春浅く
こぶしの花の 咲くがごと
いま りりしくも 人生の
朝の光に 目ざめる われら
うしなわじ この清新の気
真実を求め どこまでも
ひとすじの道 共に進まん


学生の頃、詞の意味など深く考えたことなどありませんでした。
50年経って、改めて目にすると、その素晴らしい内容が迫ってきます。
そして問いかけられているようです。

今、お前は真実を生きているか?、、、と。

人生あと半分(僕は110歳くらいまでは生きる予定です)、清新の気を失わず、楽しみながら自分の可能性を追求していきます。

嬉しい再会がありました。
50年前に好きだった人は、50年経っても素敵な人でした。

先日、研修受講者の中に、いつも他人と自分を比べて自分の劣っている所にダメ出ししてしまうという人がいました。

かつての僕もそうでした。
他者の優れている所と自分を比較して劣等感を持ち自己卑下していました。
ネガティブな感情が常について回るような毎日でしたので辛かったですね。

僕の幼い頃(昭和40年・1965年頃)実家はお金に余裕があるような家庭ではありませんでした。(今も変わりませんが)
当時、お友達の家は立派な2階建ての持ち家で、お風呂がありテレビや冷蔵庫といった電化製品がそろっていました。
翻って僕の家庭は、部屋を間借りしていて、お風呂は親せきのお家に借りに行っていたし、もちろんテレビなんて無かったしというような調子で何にも無いお家でした。
何よりの違いが、おもちゃが有るか無いかでした。
目で見てわかる違いなので比較しては自分(の家)は他の人(お家)より劣っているんだと認識しました。
比べるとつらくなるので、周りのものごとに興味・関心を持たないようにしていたように思います。
僕の本来の内向的な傾向は、こんなところで醸成された(した)のではないかと思います。

今ではありのままの自分を認める(承認)ことができるようになったので楽に生きやすくなったばかりでなく、幸せを感じながら毎日を過ごしています。
そのようにトレーニングしてきたからです。

そして今日気づいたのは「比べる」ということは「依存」することと同じではないかということです。

自分自身を評価(認識)する基準を他者においている時点で、それは依存ではないかと思うのです。
依存している限り、自分らしく自由でいることから離れてしまうのではないでしょうか。
そうすると「比べない」ことは自由で自分らしく居ることにもつながるかもしれません。
これは「比べる」ことで人よりも優れていると優越感に浸っている人にも言えるかもしれません。
そのような人は意外に自由ではないのかもしれないですね。

前野隆司教授が「幸福学」の中で「幸福の4つの因子」を明らかにしています。
その第4因子は「独立と自分らしさの因子」です。
要するに、依存せず自分らしく生きている人は、そうでない人よりも幸福度が高いということです。

「他人と比べる」ことは幸福度を下げてしまう行為かもしれません。
比較せずに、今の自分自身が持っている部分、素晴らしい部分にフォーカスして生活してみてはどうでしょうか。

老子は「足るを知る者は富む」といっています。
幸福とは心が富むことかもしれません。