「あなた、あの◯◯さんの娘なの?!

あなたのお母さん、◯◯さんは頭が良くて

スキーも県大会で

ベスト5に入るくらい上手な人なのよ〜」

 

 

 

 

私の母の家系は

皆、地元で一番の学校を卒業していて

母も、勉強しなくても成績は常にトップで

スポーツも万能。

 

 

 

 

私の母は、地元の同級生の間では

ちょっとした有名人だった。

 

 

 


特に文才が優れていた母は、

文学の道を目指して

東北大学の文学部を受験したけど、

さすがに勉強せずに、東北大は不合格。

 

 

 

浪人という道もあったけど、

兄弟達も、浪人生だったので

親にお金をかけさせないように

自分は大学進学を諦めて

国家公務員試験を受けて、合格。

 

 

 

 

国家公務員として

キャリアウーマンになるつもりだった。


 

 

 

が、当時は

年頃になると

結婚するのが当たり前という風潮があり

母も、お見合いを勧められて

30回程、お見合いするも

興味深い相手が現れず

 


 

 

31回目くらいで、父と出会った。




父は農家出身で、農家だけでは食べていけず

庭師になるために京都で修行し

地元へ帰ってきた時だった。

 

 

 

父の田舎くさいパンチパーマに色眼鏡に

街育ちの母は(やばい😨)と思ったけど

 

 

 

父は中学校卒業してからずっと働いていて

父の苦労、純朴さ、人柄に惹かれたのだろう。

 

 

 

街中育ち、地元一の高校卒のお嬢様と

田舎育ち、最終学歴中学卒の農家の長男は




真逆だから惹かれ合い、2人は結婚した。

 

  

 

が、

 

 

 

当時、父には独身の妹達

脳梗塞で半身不随の父

農家一筋の母が一緒に住んでいて

 

 

 

母は、嫁に入った途端に

飯炊き、介護、労働

そして4人娘の子育てと

休む暇無く働いた。

 

 

 

本当は、国家公務員として

働き続けたかったけど、

それも難しくなり退職。

 

 

 

当時の父は、

庭師として働き始めたけどお金が無く

車も買えなかった。

 

 

 

そんな父に、母は自分の退職金で

軽トラックをプレゼントした。

 

 

 

2人は造園業の会社を設立し、

植木市では、父の庭の前で足を止めたら

母が声をかけて、お客様を獲得。

 

 

 

父の技術と、母の豊富な知識で

沢山の方々の庭造りを手掛けた。

 

 

 

2人が60代の時、

娘達の将来を考えて

認知症対応の老人ホームを設立。

 

 

 

母が代表取締役になり

三女である私が、母と共に働いた。

 

 

 

全くの素人から

認知症対応の老人ホームの運営は

それはそれは大変で

2人で沢山の荒波を乗り越えた。

 

 

 

しかし、母はとうとう

経営のストレスで、脳梗塞で倒れてしまった。

 

 

 

それからは、私と姉妹達が

母に代わり、運営をしてきた。

 

 

 

母は皆から「理事長」と呼ばれて

朝のミーティングや、行事に顔を出して

ご利用者様一人ひとりに

背中をさすりながら挨拶したり

手を握り、ご利用者様の話相手になっていた。

 


 

従業員、私達娘、父にも

「お疲れ様ね、大変だったわね。」

と、いつも労いの言葉をかけていた。

 

 

 

昨年末、心筋梗塞で倒れて

カテーテル手術を受けた時

 

 

母は、逆ギレにも近い感じで

「絶対、家に戻る!!!」

と、リハビリも意欲的に行い

 


 

何十年と共に歩んできた 

「お父さんを残しては

逝けないから、後5年は頑張りたい。」

と、言っていた。

 

 

 

1月中旬、母が退院して

私達もフランスから帰国して

 

 

 

実家で一緒に、夕食を食べている時

母が

「…今まで、悪い母親で、ごめんなさい。」

と、急に泣き出した。

 

 

 

 

母は、誰よりも賢く

時に、賢すぎて「普通の人」の気持ちが分からず

毒親の様な態度を取ることもあった。

 

 


特に、母と真逆の私には

キツく当たったことも多かったと思う。

 

 

 

でも、私はフランスでずっと母を想っていた。

母が私にキツく当たった理由は

私が母の言うことを聞かず

自由に生きてきたから。

 

 

 

母は、

いつも働き

いつも家にいて

いつも私の帰りを待っていた。

 

 

 


私が学生の時

「ファッションの勉強のために

(数週間)フランスへ行きたい」

と言った時

母は

「あら、いいじゃない!

お金はどうにかするから、行ってきなさい。」

と言ってくれた。

 

 

 

そして、

生まれて初めての海外から帰国した私に

豚汁とおにぎりを作って待っててくれて

 

 


 

私の土産話しを

まるで黒柳徹子さんみたいに

自分の知識も交えながら、聴いてくれた。

 

 

 

 

母は、長い間

農家、家業、本家の嫁として

外出、遠出も出来なかったけど

新聞、本、あらゆる読み物で知識を得て

 


 

そして、娘達が遠出から帰ってくると

目を輝かせて聴いてくれた。



娘達を羽ばたかせ、沢山の経験を

自分のことのように感じてくれた。

 

 


「だから、お母さんは悪い母親じゃないよ。

 

お母さんが行けない代わりに

学生の私を

フランスに行かせてくれたから

私はフランス人と結婚したと思う。

 

今の私の幸せは、お母さんの愛情のおかげだよ。」

 

 

 

 

親に、こんなこと言うなんて

恥ずかしかったけど...

後悔はしたくなかった。

 

 

 

今回、フランスにいても

母のことがずっと心配で心配で

自分がこんなに

母から愛情をかけてもらっていたと

この歳でやっとわかったから。

 

 

 

母は

「…ありがとう、私は幸せ者ね。」

と、泣いた。

私も泣いた。

 

 

 

 

それから、

カテーテル手術は成功したはずなのに

 


 

「痛いの...傷口が痛い。」

と、言うようになった。

 

 

 

「本当に傷口?

身体の中じゃないの?病院受診する??」

と、言うと

 

 

 

「傷口だから大丈夫。」

と、答えていた。

 

 

 

でも

「あら、こずえちゃん、

いつもはおしゃれだけど

今日のコートはイマイチね。」

と、娘達のファッションチェックをし始めたら

母はもう元気な証拠なので

 

 

 

「食欲も出てきてるし、嫌みのひとつも言えるし

もうすぐ受診だし、良かったね。」

と、姉妹で、話していた。

 

 

 

 

翌日、朝7時

姉から電話が入る。

 

 


「今すぐ来て!お母さんが!!

…心臓が止まってるの!!!」

 

 

 

訳の分からないまま、駆け付けると

救急隊員が母を囲んでいた。

 


 

 

母は、そのまま、もう目を開けることはなかった。

 

 

 

 

庭に梅が咲いたばかりで、

昨日も父と「きれい」と

愛おしそうに眺めていたのに。

 

 

 

 

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先日、2月2日に私の母は永眠しました。

 

 

 

手術後、本当はずっと心臓が痛かったのに

絶対、病院に戻りたくなくて

家族と、父と一緒にいたくて

我慢していたと思います。

 

 

 

母の最後の夜は

いつも通り、

父と2人で夕食を食べて

2人で相撲を観て

2人で寝室に戻り


 

 

「お父さん、

今夜は寒いから手を布団の中に入れて。」

 

 

それが最後の言葉だったと、父から聞いた時に

 


 

母は、最期まで、

父の隣にいたかったのだと思いました。

深夜、父の隣で永眠しました。

 


 

 

私達、家族は急だったので、動揺しながらも

母の葬儀の準備を進めました。

 

 


母の思い出の映像を作成してる時

母の写真を見返して、ハッとしました。

 

 


若い頃、頭脳明晰で、スポーツ万能で

人生を謳歌してる母の笑顔から

 

 

父と結婚し、妻になり、母になり

必死に、一生懸命生きた母の笑顔

 

 

そして、脳梗塞後の表情は笑っていても

どこか寂し気で自信がなくなっていました。

 



 

私達、娘は、母が亡くなってから気づきました。

母は、

ずっと自分の衰えを隠しながら

必死に生きてきたのだと。

 

 


 

私が抗がん剤治療が辛すぎて

母と餃子を作っているときに、泣いてしまったら

 

 

 

母は「あなたの気持ち、わかる...」

と、一緒に泣いてくれました。




その時の共感は、誰よりも深く 

母の思慮深さを感じました。

 

 

 

今、思えば

母はもう、覚悟していたのでしょう。

自分は、きっと長くは生きないと。

 

 

 


晩年、母は

「私は何もいらない。」

と、悟ったように言っていました。



 

 

脳や心臓の病を抱えながらも

 

 

 

介護保険も使わず

最期まで、自分の人生を自分らしく生き切った母。

 




文学的な母に相応しい

まるで一冊の本になるような

賢く、強く、優しい

凛とした人生でした。

 




葬儀には、予想以上に

沢山の方に参列いただき

母は時代の先を見ていた

キャリアウーマンだったと理解しました。



 


私も、まだ毎日、泣いていますが

この辛さも学びに変えて、

母のように

思慮深く、人を想える人になれるように


頑張っていこうと思います。




 ↑

泣きながら、頑張って作成しています。





フランスでのクレープ習得や

フランスの紹介なども動画にしてるので

良かったら観てみて下さいね。




皆様も、ご家族を大切にしてくださいね。




人生は有限だから。