芸術表現の精神性~ヨーロッパと日本 | 文筆家hideの徒然ブログ

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 前回、音楽表現における「精神性」の問題について、縷々述べさせてもらいました。


 しかし、その具体的な中身には、触れていませんでしたので、ここで少しだけ書いてみたいと思います。


 大指揮者シューリヒトの評伝を読んでいると、1920年代から1960年代くらいにかけての時期、ヨーロッパ各国の専門家たちが、シューリヒトの音楽の「精神性の高さ」に関して、それぞれの立場から述べていますが、主に次の3つの視点から捉えていることが見えてきます。


① バッハからベートーベンを経て、メンデルスゾーン、シューマン、ブラースム、そしてワーグナーへと連なっている芸術表現における「ドイツ精神」を正統に継承し、それを楽曲解釈・演奏において体現できている、という意味で、精神性が高いと評価しています。


② 「眠れる森の美女を長い眠りから覚ました」というロマンチックな表現で表わされたもの。

 すなわち、クラシック音楽の名曲であっても、いや、むしろ奥深い名曲であればこそ、その魅力の全貌は必ずしも解明されていない場合があります。

 そういう未だ解明されていない素晴らしき全体像を、あたかも、その作品がたった今、そこで生まれたかのような新鮮な輝きをもって、明らかにすることができた時、聴衆はもとより演奏者たちもが、非常に高い次元(作品の本来あるべき次元=精神的な高さ)において、作品と一体化・同化し得るものです。そうした演奏を指して、精神性が高いと表現しています。


③ 演奏に接することで、己の魂がすーっと高いところへと引き上げられるような、そして、それによって、かつて経験したことのない崇高な感情に満たされるような演奏を指して、精神性が高いと言っています。

 これは、楽曲解釈ということもさりながら、むしろ、音楽家(この場合は、指揮者のシューリヒト)の芸術的な立ち位置(品位)の高さ、高邁な芸術的理念とその実現・・・・という意味合いでの精神性の高さですね。


 論者によって、精神性の捉え方が異なるとは言え、おおよそ、以上のようなアプローチをしていることが、当時の各種批評や書簡からわかります。


 ②と③は、聴衆を、人生において何度と起こり得ないような奇跡の瞬間へと導く点において類似していますね!

 ただし、②は、楽曲の本来あるべき姿を、今という時代にフィットするカタチで「再創造」するケースであり、③は、たとえ曲が何であれ、音楽家(この場合はシューリヒト)の精神の輝きと高邁さが、聴衆の魂を揺さぶり高めるケースと言ってよいでしょう。


 それに対して、①は芸術的伝統の正統な継承者というニュアンスが強く、②③とは、やや距離があることがわかります。


 ヨーロッパといえども、「精神性」という表現には、幅があるということでしょうか。



 では、翻って、日本においては、「精神性」というものは、どのように捉えられてきたのでしょうか?


④ 最も多いのは、1950年代末以降、フルトヴェングラー、クナッパーツブッシュ、シューリヒト・・・そして誰と誰が、精神性の高い芸術家だよ・・・・・と論じた評論家・宇野功芳氏の文章を読んで、なるほど、そういうものかと理解し、彼らの演奏の奥にいわく言い難い深遠なるものを感じようとしていた人々です。優れて日本的な「受容」のスタイルですね!


 そういう方々の場合は、上記の①②③を、明示的に自覚することはありませんでした。


⑤ その一方、少数ながら、①②③についての意識をもった人は存在しました。しかし、たいていは、①と②と③とを、必ずしも明確に峻別できておらず、渾然一体と化したような、曖昧な用い方をしていました。


日本において、さらに事態を難しくしたのは、次のような方々がいたことです。


⑥ つまり、楽曲の演奏とは、人間を人間たらしめている高度な精神活動であって、そこには、その人の思想・哲学・人生経験などが反映している・・・・・・あらゆる演奏家に、その人なりの精神性が存在すると看做す考え方です。


 この考え方に立つと、別にクラシック音楽でなくても、あらゆる音楽領域において、演奏家は、皆、高い精神性を有している・・・となります。

 というよりは、芸術に限らず、多くの人間の営為は、精神性の反映とされてしまい、最早、「クラシック音楽の演奏における精神性の問題」というテーマ設定自体が無意味化するのです。

 ですから、これを主張する方々は、「何を今更、精神性などという当たり前のことを、殊更に言い募るのか!」と唱えることになる訳です。


 日本の場合は、④が最も多く、それに次いで⑤⑥、そして、その後に①か②か③という感じで・・・・・そういう人々が、全体として、芸術表現における「精神性」の肯定派となっていたと思われます。


 「精神性」の捉え方が多様であるというよりは、ひとりひとりが一体どの視点に立脚して精神性を論じているのか非常に不明朗で、そこには、精神性についての共通認識が存在していませんでした。

 これでは、「否定派」から痛打されても、ある意味、致し方なかったのかな・・・・と思います。


 私自身は1968年に④でスタートし、その後、③にシフトして、以降一貫して③です。


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私は、自分なりにわかったつもりでこの記事を書いていますが、たぶん他の方々からご覧になれば、何が何だかわからない文章なのだろうと思います。申し訳ありません(;´Д`)ノあせる