山形の義母からラ・フランスを頂いた。義母と書いたが配偶者の親ではなく、実父の後添えの人で、入籍はしていなかったが、病気の父を支え看取ってくれた人だった。

 

今年は暑くて毎年のリンゴが不作で送れない、ラ・フランスにしてみたと。

耳が悪いから電話はできない、これからは手紙でやり取りをしてほしいと。

 

この人が来てくれた時は、実父は独居でいつの間にか病を抱え、私も出産直後であった。実父の看護、また在宅生活を支えるべく介護保険の申請に役所に行くのも、生まれたばかりの赤ん坊は預かるとの声はいただいても、病気の老人には声はかからないのは改めて意外な感じはした。このままダブルケアに突入、これを体験に後の授業のネタにするかとスリリングな生活をしていた時に現れたのがこの方だった。

 

私は実父の性格の気難しさは知っていたため、この方が一緒に住んでお世話したいと名乗り出てくださったときに、よくもまあそんなと仰天した。どこが良いんですかと真顔で聞いた。雨の中、傘をさして、実家のある駅の前で、赤ん坊を抱きながら真剣に聞いた。

 

知り合いたちは違う視点で反対した。関わった福祉関係者は後妻業であろうとはっきり言った。親せきは勿論反対。友だちや職場の人でも家庭を抱えている人たちは反対した。そんなうまい話はないだろうと。

賛意を示したのは、未婚の働く友達だ。それはおとうさんにとって幸せなことだね、と。

 

ただ反対する人々が勘違いしていることが一つある、それは実父に狙われるような財産なんかたいしてないということだ。

そして、父はその方と暮らすことを心から望んでいた。私は育児との両立から軽くなりたい気持ちがあった。

 

多数の苦労を乗り越えたような、しっかりした優しい雰囲気を持つ人だった。多分大丈夫、私はそう判断し、周りの圧倒的反対を振り切り、その人に父を託すと決めた。

こんなに周りに反抗したのは初めてだったかもしれない。

 

そのあとケアマネや福祉職員、親せきも入って、在宅生活について話し合うこともあったのだが、肩身が狭い立場であっただろうに、一貫した態度で臨んでくれていた。

 

結果的に、もちろん事件が起こるわけもなく、父が望む生活を実現させてあげてよかったと本当に思う。

本人の最善の利益、という視点は、福祉関係者ならいつでも聞かされる言葉なのに、それが一瞬でも揺らいでしまった自分が情けない。父は幸せだった。

 

ラ・フランスは香りが高く、名前も味も洒落た果物であると思う。

 

父が死んで、その方とお別れするとき、私は父の残した幾ばくかのお金をお渡ししようとしたのだが、固辞された。

レッド・バトラーの言ではないが、お金を見て全く揺るがない人は珍しいと思う。売買ではないお金のやり取りは、すべてをせせらにする。私は父をお願いして正しかったのだ。

 

あなたはお父さんと似ていて、気持ちが一本気でまっすぐだ、とその方は言った。

それなら私も多分気難しいのだ。

私はあの人に会いたいと思う。最近は特にそう思う。