老い支度 | 優*游涵泳

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語りえぬものについてこそ、語ることを試みつゝ。

風雨を押し出すような人波が往来する午後の渋谷。「小室等・柳原陽一郎 トーク&ライヴ老い支度」に参加しました。多岐にわたり音楽活動を展開している両名が老いをテーマに歌とトークを繰り広げ、そこに詩人の谷川俊太郎さんが客人として迎えられるというユニークな企画でした。お二人の歌と谷川さんの朗読を挟みながら、老いにまつわるエピソードがざっくばらんに語られ、そこがステージではなく自宅の一室であるような心地を覚える、和やかな時間が流れました。

 

 

 

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「私は老い支度ではなく、死に支度をしている。老い支度は、老いていないからするものでしょう。」という谷川さんのコメントを皮切りに、前半は「老いの実態」をテーマについてそれぞれの考えや体験談が語られました。共通していたのは、親が認知症になるといった「身近な人の老い」を通じて、自身の老いを自覚するという点です。そして、後世の手を借りぬように老いていくにはどうするか、という老い支度の姿勢が芽生えるのです。肉体的な老いは確実にあるものの、精神は老いることはない、あるいは、老いることが退化を意味する訳ではないという心持ちは流石です。

 

後半は「老いの哀しみ」について、死生観にも触れる話題が登りました。身近な人の「死」について、谷川さんは、「ダイレクトに哀しくなることがなくなってきた」と言います。3年ほど経ち、因果のないときにふと哀しみが押し寄せ、泣くことがあると。一方で、人の死に甘美な感情を覚えることもあり、それは天寿を全うした相手の死をどう見るかという、解釈者としての死生観に由来するものだそうです。「哀しみをどう書くかということが詩人の芸」であり、そもそも「自分が存在していることが哀しみ」という根源的な気質が、詩を書く者にはあると語ります。「宇宙の文脈の中での死」を捉えようとする営みは、我々が日常で感じる「哀しみ」とはまた異なるものかも知れません。

 

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谷川さんの本質的な人生観と、茶目っ気たっぷりのユーモアは、司会も兼任されていた小室等さんの巧みな話術により一層引き立ちました。フォークシンガーの小室さんは、谷川俊太郎さんの多くの詩に音をつけてこられた方だそうで、74歳とは思えないバイタリティと熱のこもった歌声を聴かせてくださいました。小室さんの声に乗って響く谷川さんの詩は、文字だけでは感じられない抑揚や息吹を帯び、ぐいと心を握られたり、そよ風のように心地よく吹き抜けたりと、様々な表情を見せてくれました。谷川さんの「詩は音楽に恋焦がれている」という言葉に応えるような、美しい相思相愛の形がそこにはありました。

 

また、「たま」のメンバーとしてご活躍されていた柳原陽一郎さんは、軽快なリズムが印象的な繊細な楽曲を、ユーモアを交えて披露してくださいました。「とこや とこや とこやはどこや」と繰り返す「とこやはどこや」という歌は、谷川さんの言葉遊びにも繋がるものを感じ、音のゲシュタルト崩壊とでも言えそうな奇妙さと小気味よさがありました。探せど見つからぬ「床屋」は、心の拠り所のメタファーと考えることもできそうです。

 

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本日の記念に、このイベントで披露された楽曲を含む『プロテストソング』を自宅に迎えました。右から開くと谷川俊太郎さんの詩集、左から開くと小室等さんの楽譜になっています。同行してくれた友人たちともお揃いで、良き思い出となりました。

 

振り返れば、ちょうど一年前の今日も、谷川俊太郎さんのイベントに参加していました。谷川さんは、日本国憲法を題材にした「不文律」という詩も書かれています。憲法記念日の今日、「老い」というものに対して漠然と抱いている多くの不文律を自覚しました。これが私の、老い支度の始まりです。