次はスター誕生!です^^ | yohei myblog(赤裸々ブログ)

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色々と語っています!

1971年10月3日 - 1983年9月25日の12年間に渡って放送された、日本テレビの視聴者参加型歌手オーディション番組。619回放送。略称は『スタ誕』(-たん)。

放送時間
放送日時は、日曜11:00 - 11:55。1982年4月4日以降は、放送時間が『NNN昼のニュース』の時間繰り上げに伴い11:00 - 11:45に短縮された。また、一部地域では放送日時が異なっていた。

概要
番組の企画者は審査員の一人でもある阿久悠で、番組のタイトル命名はチーフプロデューサーの池田文雄である。明日のスターを夢見る人のための正統派のオーディション番組であり、毎週、厳しい予選を勝ち抜いてきた5-7人程度の挑戦者が歌合戦形式で実力を競う。

同じネット局の読売テレビ『全日本歌謡選手権』や、兄弟番組である日本テレビ『お笑いスター誕生!!』と共にまさに実力勝負が要求され、猛烈な審査の厳しさ、審査員の辛口批評などが特徴。そして、合格の瞬間、大号泣する挑戦者も多かった。

視聴率
初回の視聴率は4.7%だった。森昌子デビュー後から視聴率が上昇。1978年5月7日放送分では番組史上最高の28.1%をマークした。初回当時の裏番組は『兼高かおる世界の旅』『圭三訪問』(いずれもTBS系)と『あなたのメロディー』(NHK総合)があったが、番組の人気上昇で『-世界の旅』は9:00に繰り上げ、他の2番組は打ち切りとなった。

出演者
司会者
初代:萩本欽一 - 1971年10月3日-1980年4月6日[第443回]
当時コント55号で人気絶頂期だった萩本にとって、初めてのソロ活動、かつ司会初挑戦だった。萩本は司会に起用されると「僕、司会なんてしたことないの」と語っている。萩本を起用した理由は「人柄の良さ」「アットホームさ」だという。その期待通り、萩本の出場者に対する親身な接し方、不合格者も暖かく見守る姿勢が審査員たちの辛口批評とのバランスをとる役割を果たし、司会が番組の人気を支える大きな要因となった。萩本にとってはこの仕事の成功が、『欽ドン!』等のその後のレギュラー番組にも結びついてくる。
2代目:谷隼人・タモリ - 1980年4月13日-1981年4月5日
谷は出演当時「岩谷隆広」名義だった。タモリは兄弟番組である『お笑いスター誕生!!』にも、審査員として出演していた。2人とも『スタ誕』の司会を知る人は少なく、後年の同窓会(後述)で、タモリは「ほとんどつなぎの様なものでしたねぇ」と語っている。
3代目:坂本九・石野真子 - 1981年4月12日-1982年1月3日
石野は『スタ誕』デビュー組の歌手。結婚による芸能界一時引退のために、1981年9月6日放送分で降板した。
4代目:横山やすし・西川きよし - 1982年1月10日-1983年9月25日
当初はきよしが、若松愛子と共に担当し、後に単独で務めた。やすしは1982年10月24日放送分から登場。
審査員
萩本、谷・タモリ、坂本(・石野)時代
松田トシ(松田敏江)
阿久悠
中村泰士
都倉俊一
三木たかし
森田公一
当初、松田・阿久・中村はレギュラーで座り、残りの2名は外部の作詞家・作曲家、レコード会社のディレクター、芸能雑誌「明星」「平凡」の編集記者が交互に登場していた。途中から都倉、三木が加入し、審査もより厳正になった。なお、中村は一時期降板して森田に交代したが、三木の完全な降板とともに復帰した。
きよし単独時代(きよしは「評議員」と呼んでいた)
小林亜星
ジェームス三木
大本恭敬
服部克久
大林宣彦
浅井慎平
残間里江子
やすきよ時代(最末期。最終回まで)
三橋美智也
弦哲也
その他の出演者
高橋達也と東京ユニオン(バンド演奏)
岡本章生とゲイスターズ(バンド演奏)最終回担当
横森良造(アコーディオン)
土居甫(振付師)
ザ・シュークリーム(ユキ、クーコ、イッコ、ノロ。萩本時代最初期のアシスタント)
井上れい子(萩本時代のアシスタント。萩本と同時期に降板)
リンリン・ランラン(香港出身の双子デュオ。井上と共に萩本時代のアシスタントを務めた)
北村優子(リンリン・ランランと同時期に、デビューコーナーに正式に出演する前に、少しの間アシスタントを務め、合格者の首にメダルをかけていた)
黒部幸英(出演当時は「クロベエ」名義。萩本と同時期に降板)
斉藤清六
雪吹優二郎(ふぶき ゆうじろう…出演当時は「ユージロー」名義。萩本と同時期に降板)
西山浩司
シンちゃん
志摩のぶ子(のちに芸名を志摩のぶこに改名。谷&タモリ時代のアシスタント)
ラビット関根(坂本時代)
伊藤さやか(坂本時代-やすきよ時代初期。当初は番組アシスタントを務めた女の子4人組「くれよん」の一員として出演。他のメンバーは、高鹿久子→シャワーの一員に。出口裕子、郡山美波→美波千秋に改名しグラビアへ)
若松愛子(きよし単独時代初期にきよしとのコンビで司会を務めた老人女性。元宝塚といっていた)
堀敏彦(きよし単独時代、ゲームコーナー「仲よしきよし」に出演。当時高千穂商科大学に在学中で、浅井企画所属のタレント。現在はテレビ新潟アナウンサー)
伊藤英敏(やすきよ時代のナレーション)
芸能史における位置付け
この番組でデビューしたタレントの活躍は芸能界地図を塗り替えるきっかけとなった。テレビの草創期から1970年代まで「ナベプロ王国」と称される黄金時代を築いた芸能事務所・渡辺プロダクションがその絶対的な地位を失ったのは、ホリプロダクション、サンミュージック、田辺エージェンシーが力をつけたためであり、それら新興プロダクションへのタレント供給源となったのがこの番組だった。

ただ、前身番組である『ホイホイ・ミュージック・スクール』、『あなた出番です!』では渡辺プロと蜜月関係にあり、スタ誕初期のゲストとして渡辺プロ所属のタレント達が出演していた。最初期のアシスタントを務めたザ・シュークリームは渡辺プロ所属だった。韓国で開催された予選にも当時渡辺プロ所属だった森進一がゲストとして出演した。第6回決戦大会頃までは番組に関わっていたようである。やがて、これに対抗するため渡辺プロは1973年より独自にオーディション番組『スター・オン・ステージ あなたならOK!』をNETテレビ(現・テレビ朝日)で放映開始する。

ところが『あなたならOK!』の放映日時となった月曜日の夜8時という時間帯は日本テレビが『紅白歌のベストテン』を放送しており、これに渡辺プロの歌手も出演していたため、テレビの芸能史上に残る日本テレビと渡辺プロの間での戦争が起こった。しかし『あなたならOK』は視聴率に恵まれる事なく、結果は失敗に終わった。その後、38回決戦大会の前後ぐらいから番組には再び関わりはじめ、最終的に、渡辺プロは『スタ誕』から、松本明子をデビューさせた。

この番組の成功は“雨後の筍”の如く類似オーディション番組が生まれる結果に繋がったが、そのほとんどは既成の役者(主に子役出身者)を歌手としてデビューさせる傾向が多く、"原石から研ぐ"姿勢のスタ誕を超えることはできなかった。

番組終了後『スタ誕』復活を望む声があった。しかし、中三トリオを仕掛けた堀威夫(ホリプロ創業者、現・取締役ファウンダー)は後のインタビューで「当時は3分で作れるカップ麺が受けた時代だから昨日の素人がアイドル、スターになれる番組が受けた。今は高い金を出して並んででも美味しいものを求める時代だからもう最大公約数を求めるテレビはスターを作る番組は作れないだろう。」と語っていた[1]。

ルール
「スタ誕」の予選会会場に使用されていたよみうりホール(読売会館7階) 予選会 [編集]
出場希望の葉書が殺到したため、毎週約500-1000人に絞り、百貨店・そごうの有楽町店が入っていた読売会館の7・8階のよみうりホールで予選会を開いていた。このため、日曜日のそごうの階段は、応募者の長蛇の列であふれ返っていた。なお、よみうりホールが他興行やメンテナンスで使用できない場合は、日本テレビ四番町ビルで、地方で公開収録がある場合は、放送している系列局が告知を出していた。

応募者は、自ら持参した歌本(楽譜)を横森良造に提出し、横森のピアノの伴奏で歌う。レギュラーの審査員は直接出向かず、テレビ予選の歌唱楽曲の編曲者である高見弘や番組のプロデューサーなどが審査をしていた。

一次審査は、応募者は楽曲から好きな部分を四小節選び歌う。歌詞を忘れたり、歌い始めたと思ったらブザーが鳴ってしまったことも多かったという。この大人数の中から50人に絞り、同じ方法で二次審査を行う。二次審査ではさらに30人に絞られていく。どちらも失格者はその場で退場となる。

最終審査では、30人は1コーラス歌う時間を与えられる。そして、最終的にテレビ予選への進出者が決定する。その人数は当初は14人だったが、時期により変動がある。詳しくは次の「テレビ予選と審査方法」の欄を参照。

テレビ予選と審査方法
司会者の変遷により異なっていた。

萩本欽一・谷隼人&タモリ時代
テレビ予選に出場できるのは1回7人(組)まで。両代とも末期は5人に削減され(萩本時代は1978年1月8日から降板までの2年3ヶ月、谷&タモリ時代は最後の1クール(1981年1月11日 - 3月15日))、予選会の二次→最終審査は20人→10人だった。

電動昇降のスタンドマイクの前に立って一人1曲、1コーラス歌い、審査を受ける。

結果発表の時、挑戦者の頭上に4桁の電光掲示板があるセットが映される。舞台の下手(左側)に位置し、7人時は下段が1-4番で上段が5-7番、5人時は並列であった。会場の一般審査員と5人のプロフェッショナル審査員の合計点数が表示される。

得点は会場500点、プロは1人につき100点で計500点の1000点満点で、規定の点数に達すれば合格。その点数は7人時250点、5人時は300点。規定の300点時代の頃、305点でしかもギリギリラインで合格した挑戦者も多数いた。

最初に司会者が「まずは、会場の500点から、どうぞっ!!」と言い、会場から手元のスイッチで“投票”。その際にはファンファーレが鳴る。ボード上の数字は水色(初期は豆電球=ドット式)で回転。

まれに会場の審査段階で合格者が出ることもある。石野真子(大阪大会=豊中市民会館:テレビ放送日1977年2月13日)は、会場からの得点だけで合格ライン250点を超え、阿久悠らプロ審査員を驚かせた。石野は最終得点が530点になり1000点の過半数を独占した。ちなみに番組史上最高得点は桜田淳子の573点(秋田大会=秋田県民会館:テレビ放送日1972年8月6日)。

この得点審査中、合格者が出た場合は外周の赤い豆電球が時計回りに回転する。合格者が出なかった場合は、ドラムロールをバックに、司会者が「トップは○番の○点、その次は○番の○点」とアナウンスする。

続いて、司会者が「さあ、審査員の先生方の500点が伸びます!どうぞっ!!」と言い、ドラムロールの音が鳴り続けながら(その際にはクラッシュシンバルを叩いて合図する)プロの点数が加算される。数字が回転するのと同時に豆電球が回転。会場の段階での合格者もプロの点数は加算されるが、豆電球は回転し続けたままである。失格の場合は点数の低い順から豆電球が消える。合格の場合、豆電球は回転したままで、数字はブラウン管と同じ原理で赤に変わり、目の前のパトライトが回転して合格を知らせる。

得点ボードが赤く付き、パトライトが回転して合格した瞬間、生バンドによるファンファーレが鳴り、萩本、谷&タモリが「○番の方、合格です!!」と言う。さらに「合格!!おめでとう!!○番 ○○サン」の字幕スーパーが出る。

一度、萩本時代に『全国縦断選手権』というものが行われ、日本国内数箇所で予選を行い、それぞれの合格者が決勝に臨んだ(通常の決戦大会は行われなかった)。優勝者はデビューはしなかった。他の出場者はその次の決戦大会に出場したが、スカウトのプラカードは誰にもあがらなかった。その中の一人に、後に『君こそスターだ!』でグランドチャンピオンになった、古賀栄子がいた。

谷&タモリ時代の5人時は、審査基準を歌唱力と個性に重点を置くため、会場の審査を歌っている最中に行っていた。舞台の中央(バンドボックス)左側にデジタル式の電光掲示板を設置し、画面の左下に緑のデジタル表示(クロマキー)を出していた。

合格者は、日本テレビ音楽学院(現・日テレ学院タレントコース)の入学案内書と副賞の奨学金が贈られ、紺色のブレザーコートが羽織られる。最後はバンザイをして締めくくり、エンディングとなった。

また、挑戦者全員には、スポンサーからの参加賞がプレゼントされる。

ただし全スポンサー6社(資生堂・江崎グリコ・アサヒビール(現・アサヒ飲料)[2]ほか)の内、その中の3社→残りの3社という風に週毎に参加賞が変わっていた(つまり全社から出る事はなかった)。
全員失格だった場合はエンディングの際、萩本時代は「バンザーイ、無しよ!」とポーズをとって締めくくった。これも萩本のギャグのひとつになった。なお、谷&タモリ時代は「ゴメン!」の一言だけ、坂本時代は「残念!」の一言だけだった。

坂本九・石野真子時代
テレビ予選は1回8人まで。予選会の二次→最終審査は30人→16人。

二部構成で、パート1は8人がメドレー形式で歌い、100人の観客が審査する。持ち点は各自1点。点数の高い者がパート2へ進む。その人数は当初は5人、途中から4人に削減。

パート2はハンドマイクで一人1曲、1コーラス歌い、プロの審査を受ける。歌う曲目はパート1と異なる。

結果発表の時、舞台に挑戦者が座っている巨大なデジタル式の電光掲示板が登場。5人の審査員の点数が一人ずつ個別に表示される。ドラムロールが流れながら、坂本が「○○先生、得点どうぞーっ!!」と言う。そして審査員の似顔絵が描かれたランプが点灯し、ファンファーレが流れて点数が表示される。持ち点は審査員1人につき60点が基準で、クリアすれば赤い豆電球が回転。5人の合計が300点に達すれば合格で、豆電球が上下を取り囲んで回転し、目の前のパトライトが回転し、生バンドによるファンファーレが鳴り、坂本が「○点!!おめでとうー!!」と言う。

中森明菜はこの時代、予選3回目の挑戦で合格[3](関東大会=後楽園ホール。テレビ放送日1981年8月2日)。点数は、阿久悠:75、森田公一:70、都倉俊一:85、松田敏江:63、中村泰士:99の合計392点。この形式での史上最高得点である。中村は本当は100点満点をつけるつもりだったが、ボードは2桁までしか入らないため99点とした。

合格者には中規模のトロフィーが授与された。初代の萩本時代から、決戦大会の最優秀賞獲得者にゴールデントロフィーを授与していたが、通常でもトロフィーが登場するようになったのはこの頃が初めてである。

同代から「スター誕生!」の番組名ロゴ及び、テーマ曲が変更されている。

なお、坂本九はナベプロの影響の強いマナセプロのタレントであり、彼を司会に起用したことについて日テレがナベプロとの和解を模索したと評されている。EDは、合格者・不合格者が前向きに頑張って貰いたいという願いから、「上を向いて歩こう」が使用され、坂本本人が歌っていた。

また、石野真子は同番組の第20回決戦大会でスカウトされ、歌手デビューから3年後の司会起用であった。

西川きよし単独時代
テレビ予選は1回6人(予選会の二次→最終審査は20人→12人)、放送時間短縮後は5人が登場。一人1曲歌う(スタンドマイクの前に立って。決戦大会ではハンドマイク)。 審査時には坂本時代と同様に舞台に巨大なパネルが登場、挑戦者も座っている。ティンパニロールが鳴り、星の形の10個の電光ランプが8個以上点灯すると合格となり、決戦大会に進出となる。

決戦大会の選考方法が違うので、決戦大会の項目を参照。

横山やすし・西川きよし時代
前期(1982年10月24日-12月12日)
テレビ予選は1回15人が登場し、一人1曲歌う。審査は歌っている最中に行われ、結果は背後の大きな星型の電光掲示板が合格ラインに達すれば合格となり、自動的に決戦大会に進んだ。しかし、やすきよ時代の決戦大会は1回しか行われなかった。詳しくは決戦大会の項目を参照。

後期(1983年1月23日-最終回)
「全国選抜歌の選手権」のサブタイトルがついた。ルールも大幅に変更され、決戦大会をなくし、勝ち抜き制となった。一人1曲歌い、即座に審査結果が発表される。5人の審査員の合計が350点(持ち点は1人につき70点が基準)をクリアすると次の週に進んだ。そして7週連続勝ち抜くとグランドチャンピオンとなり、天井から紙吹雪が降り(風船は入っていない)、審査員から賞状とゴールデントロフィーが授与された。

この回から「グランドチャンピオン」のフレーズが出て来た。それまでは通常大会や決戦大会でも単に「合格」であり、さらに決戦大会合格者の中からは「最優秀賞」と表現していた。

グランドチャンピオン達成の瞬間、「おめでとう!!グランドチャンピオン!!」の字幕スーパーが大きく出た。表彰の際には「1週目『○○(曲目)』×××点…」というように全ての歌った曲目と獲得点数の字幕ロールが出る。この回から、挑戦者がプロ・アマ問わなくなり、プロにはなったものの、ヒット曲に恵まれなかった元プロ歌手も出場していた。また、このやすきよの代から、再び萩本、谷&タモリ時代の番組名ロゴに戻る。

決戦大会
1クール(3ヶ月)に1回、合格者が7、8人たまったところで、観客席に芸能事務所、レコード会社のスカウトマンを集めて行われた。通常通り1人1曲、1コーラス歌い、審査員がコメントし、スカウトマンが質問した。

坂本時代までは、全ての出場者が歌い終わった後、バンドの左側に決戦大会専用の「お立ち台」が設けられ、結果発表となった。出場者が一人ずつお立ち台に出て、それぞれがスカウトマンに対しスカウトしてくれるようにアピールした。「○番、○○です。一生懸命歌いました。よろしくお願いいたします!!」というフレーズは、多くの挑戦者が放った。スカウトマンの中には、元ザ・タイガースのタローや元ヴィレッジシンガーズのヴォーカルの清水道夫、ビクターレコードでの飯田久彦などがいた。司会者の「どうぞー!!」の合図で、スカウトする意思があれば、会社の名前が書かれたプラカードを揚げた。特に萩本時代、なかなかスカウトマンがプラカードを揚げない状況が続くと「お願い、勝たせてあげてよー!」という台詞もよく出た。プラカードが揚がった瞬間、ファンファーレが鳴り、司会者が「揚がりましたーっ!!おめでとうございまーすっ!!」と言っていた。

規則では、1社しか挙がらなくても合格として認められていたが、その後、会社の組み合わせができなければ保留、あるいは失格となった(事務所のみ、あるいはレコード会社のみ等は組み合わせに時間がかかり調整した)。もちろん1社からも指名されずに涙を呑んだ挑戦者もいた。そして、合格者(スカウトされた挑戦者)の中から1人「最優秀賞」が審査員から発表された。この方法は“人買い”との批判もあったが、チーフプロデューサーの池田文雄はこれについて、「あれは素人に芸能界の厳しさを教えたかったから」とインタビューで語っている[1]。その他、最優秀賞の次に優秀だった合格者に「審査員特別賞」が、まれに失格者の中から1人、審査員の裁量で次の決戦大会への挑戦権が優先的に与えられる「審査員奨励賞」が発表された。

12年間の最高指名社数は、桜田淳子の25社。その他では山口百恵、新沼謙治に対して20社、黒木真由美-18社、渋谷哲平-18社、伊藤咲子-17社、石野真子-16社、清水由貴子-14社、森昌子-13社、中森明菜-11社、岩崎宏美-8社、ピンク・レディー-8社、岡田有希子-4社、柏原芳恵-3社、小泉今日子-3社、等。最少指名社数1社の人には、渡辺プロダクションのみにスカウトされた松本明子[4]などがいる。

現存する番組の一番古い映像は、桜田淳子の秋田県テレビ予選出場者の選考会フィルム。森昌子・桜田淳子・山口百恵の決戦大会の映像は残されていない。音声のみのテープと写真が存在するだけである。決戦大会で山口百恵は、東宝レコードスカウトマンの「百恵ちゃんは足は太いほうですか」の質問に、「はい、太いです」と返答した。

きよし単独時代の決戦大会は、スカウトマンが2名までスカウトして投票する形式で、投票後に即集計された。結果発表では挑戦者が「おめでとう!(会社名)以上○(数字)社が貴方をスカウトしました。」と書かれた紙が入った封筒を持って待っていた。その後挑戦者が一人ずつ最前列に立って開封、獲得意思のある会社名が書かれていたら合格となり、「ありました」または「受かりました」などと言った。ファンファーレが鳴り、「おめでとう!○○××さん」というテロップが出る中、天井から紙吹雪が降り、トロフィーが授与された。逆に書かれていなかったら失格となり、「ありませんでした」または「受かりませんでした」と言って退場した。この方式でスカウトされたのは、吹田明日香、松尾久美子、松本明子である。

やすきよ時代の決戦大会は、1982年12月19日・26日の2週に渡って行われた。事実上準決勝となるパート1は全合格者が一人1曲歌い、事実上決勝となるパート2に進める10人が選ばれた。パート2は10人が歌ったあと、スカウトマンが質問。そして萩本・谷&タモリ・坂本時代と同様に、スカウトマンに対し、スカウトしてくれるように呼びかけた。スカウトされたらきよし単独時代同様、「おめでとう!○○××さん」というテロップが出る中、天井から紙吹雪が降り、トロフィーが授与された。この方式でスカウトされたのは、岡田有希子(この回のみTVのOAはなし)、太田貴子、高橋美枝である。

この番組は歌手デビューがメインのオーディション番組だったが、決戦大会でプラカードが挙がってもデビュー出来なかった合格者、歌手以外の芸能人でデビューして有名になった挑戦者は数多くいる。10回決戦大会:1名、11回:1名、12回:1名、15回:1名、17回:3名(一人は最優秀賞受賞者)、19回:1名など。逆に決戦大会では失格になったものの、別口でスカウトされてデビュー、有名になったケースもある。例えば、全日本女子プロレスから女子プロレスラーとしてデビューしたマッハ文朱、決戦大会当日は指名しなかったボンドより翌年原宿でスカウトされデビューした本田美奈子、後にヤマハPOPCONでグランプリを獲得しデビューした本田美緒など。

その他のコーナー
挑戦者全員の歌の審査が終わったあと、結果発表が出るまでの間、全挑戦者をリラックスさせるため、ゲストとともにいろいろなゲームを行っていた。特に萩本司会時代が知られ、「欽ちゃんと遊ぼう」コーナーと呼ばれており、「こっちむいてホイ!」「ドビン・チャビン・ハゲチャビン」「フルーツバスケット」「古今東西」「あなたにお名前差し上げます」等の数多くのゲームが生まれた。またリンリン・ランランが加入後は、「振りまねコーナー」といって、リンリン・ランランやピンク・レディーのヒットソングの振りまねをやる事が有った。このコーナーから、黒部幸英(「欽ちゃんコーナー初代チャンピオン」、ニックネーム・クロベエ)、西山浩司らがブレイクし、いずれも萩本にスカウトされた。コーナー冒頭でアシスタントの井上れい子が「審査の集計が出るまで、欽ちゃんと一緒に遊びましょうね!」と言っていた。さらに萩本はこのコーナーの企画を手掛けていた。また、谷&タモリ時代にも、タモリのみ出演だが同様のコーナーが行われていた。さらにきよし単独時代にも「仲よしきよし」のコーナーがあった。

決戦大会の合格者が出演し、萩本ら司会者やアシスタントの井上れい子の問いかけに答える形で報告する「スタ誕情報局」コーナーも設けられた。合格者の大半は、芸名とデビューの予定月日を告知する。

また、番組出身の新人歌手を紹介するデビューコーナーがある。デビュー曲発売一週目前から四週に渡りタイトルと歌手名のオブジェを客席に設けステージのセットとして使い、新人歌手を大々的にアピールしていた。最終週はメインステージに 移り、生バンドの前で歌を披露した。後年は歌手サイドの意向により様々な演出があった。

公開録画と収録場所
原則として毎月2回、東京都内にある後楽園ホールで2週分収録して、一般観覧客を招いて行なわれた。後楽園ホールがプロレスやプロボクシングなどのほかの興行や、メンテナンスで使用できない場合は、調布グリーンホールなど、郊外の公会堂を使用していた。

また、年に3、4回は、地方で公開録画も行なわれた。現地の日系人が出場してハワイ大会も行われた。1975年の沖縄海洋博会場からも公録が行われた。また、きよし単独時代はキャンプ形式で1度だけ山中湖のキャンプ場でロケを行い放送した。

セットの変遷
この節は執筆中です。加筆、訂正して下さる協力者を求めています。
萩本・谷&タモリ時代
上部に丸みを帯びた長方形の連なった模様の飾りが配置され、中央部にタイトルロゴがある(時期により金色の日本地図も併設されていた)。また、飾りの中には黄色のパネルが埋め込まれ、このパネルには提供スポンサー名が印刷されていた。長方形の飾りの外側には丸みを帯びた左右対称のL型の板があり、双方に日本テレビ音楽学院(現・日テレ学院)のマークが飾られていた(谷&タモリ時代はマークが変更、バックが銀色で竪琴と獅子が青系となった)。飾りの下には大階段があり、挑戦者がイントロと共にスタンドマイクの前に駆け下りてくる。階段の両脇には萩本時代は大きな手摺りと造花が飾られていたが、谷&タモリ時代には撤去された。ビッグバンドの配列は、階段の右半分は右からグランドピアノ(下段)・女性コーラス(上段)→ギター系(下段)・女性コーラスの待機場所→アコーディオン(横森良三)→チューブラーベル(上段、コーラスの待機場所とアコーディオンは1978年からシンセサイザー用のスペースになる)。1979年 - 80年にはギター系の下に電気ピアノが入ることもあった。左半分はドラムス→ブラスで、指揮者は左半分側にいた。また、1970年代後半にはドラムスの下にラテンパーカッションが入った(配列は後楽園ホールでの収録の場合を基準にしている。地方の公会堂では配列が逆になっていた)。舞台の上手(右側)には、番組出身者の写真が飾られていた。ちなみに、野外での収録(前述のハワイ大会や沖縄海洋博等)の際には階段とビッグバンドのない簡素なセットになり、バンド演奏はあらかじめ録音したもの(?)を使用していた。挑戦者5人時代、舞台下手にある電光掲示板の上部には、左側はタイトルロゴ(両代共通)、右側は萩本時代は放送回数、谷&タモリ時代は収録場所のある都市名(たとえば後楽園ホールなら「東京」)が掲げられていた。電光掲示板のあるセットは、決戦大会時にはボードが伏せられ、挑戦者の番号とネームプレートとパトライトのある透明な(時期により色付き)ボックスとパイプ椅子が撤去された。ボードは7人時は上段から「第」「xx」「回」「決」「戦」「大」「会」、5人時は「第xx回」「決」「戦」「大」「会」である。

坂本時代
ビッグバンドは中央から左寄りのピット内に収められ、右側に階段がある。バンドの配列は、中央側がグランドピアノ→ドラムス(下段)・シンセサイザー→ギター系(中段)・ラテンパーカッション→女性コーラス(上段)、左側はブラスで、その手前に指揮者がいた。下手・上手と階段上部にはカーテン付きの衝立(階段上部はやや大型。上手には提供スポンサー名が掲げられている)。背景は通常は青系である。

きよし単独時代
ビッグバンドは坂本時代と同様にピット内に収められているが、萩本・谷&タモリ時代の時に似ている。バンドの配列は、階段の右半分は右からグランドピアノ→シンセサイザー(下段)・ギター系(中段)・女性コーラス→ラテンパーカッション(上段)、左半分はドラムスとブラスで、その手前に指揮者。下手・上手にはカーテン付きの衝立。その上に提供スポンサー名が掲げられている。背景は通常は青系であるが、結果発表の時に巨大なパネルが登場する(決戦大会時にはセットの一部になり、結果を見て「合格」なら星型のランプが点滅する)。また、背景を隠すため、タイトルロゴが印刷された左右両開きのスライド式の板もある。

やすきよ時代
中央の階段がなくなり、オーケストラピットが中央に集中し、その代わりに左右に階段が設けられた。また、『スター誕生!』のロゴの星の部分に電飾が埋められた。提供スポンサーは両方のL型の板にパネルで張られていた。

審査員席
萩本時代の7人時の途中までと坂本時代は客席の最前列で(特設のテーブルがあった)、それ以外は舞台の上手にて審査していた。

出場者
主な合格者
(合格した時期が早い順番から)

沼尾健司 - 番組初(第1回放送)のチャンピオン。元内山田洋とクールファイブのボーヤ。栃木県出身
森昌子 - 第1回決戦大会最優秀賞。そして記念すべき番組からのデビュー第1号
長田(現・おさだ)たいじ
柴葉子 - 第1回決戦大会合格者。31回決戦大会合格の堤久美子と並び、デビューまでにかなり時間がかかった人
三橋ひろ子 - デビュー第2号
コスモス - スタ誕出身デュオグループ第1号
藤本哲也
緑川真
鷲と鷹
南陽子 - 現・浅井企画社長夫人
堺淳子
最上由紀子
池田正臣
桜田淳子 - 地方予選会の映像が残っている、決戦大会で番組史上最高の25社からスカウトを受けた
菅原昭子
山口百恵
シルビア・リー - スタ誕出身外国人タレント第1号。韓国出身
松下恵子
すみあきくん
宮本賢治→宮本けんじ
麿こうじ
藤正樹 - 1973年3月、第6回決戦大会で「新潟ブルース」を歌い最優秀賞を受賞、同年7月25日、弱冠15歳で「忍ぶ雨」(阿久悠作詞、新井利昌作曲、竜崎孝路編曲)でデビュー。キャッチフレーズは「演歌の怪物ハイセイコー」。オリコン最高位13位のヒットとなった。同年、銀座音楽祭グランプリを受賞
おがた愛
城みちる
石江理世
伊藤咲子
しのづかまゆみ(現・篠塚満由美)
松田新太郎
米永透
目黒ひとみ
片平なぎさ
小林美樹 - 引退後明治大学に進学し、テレビ新潟の初代アナウンサーの一員となり、同局退社後はフリーアナウンサー(4年間)、NHKの経済番組の専属キャスターを務めた
梶たか子
渡辺秀吉
小川真代
岩崎宏美
黒木真由美 - その後、石江、目黒と「ギャル」というユニットを結成するが不発
北村優子 - のちに日テレの学園青春ドラマ『ゆうひが丘の総理大臣』『あさひが丘の大統領』に生徒役で出演
新沼謙治
横本メイ - ハワイ出身
久木田美弥
神保美喜
朝田のぼる
浦部雅美→うらべまさみ
清水由貴子
ピンク・レディー
神田広美
谷ちえ子 - 現・小倉一郎夫人
ものえ和恵
梓真由美
岩城徳栄 - 後に愛称のピーコを芸名に『独占!女の60分』(テレビ朝日)のレポーターとしても活躍した
渋谷哲平
石野真子 - 審査発表で会場の一般審査員の得点だけで合格点に達した(最終得点は530点)、デビューから3年後の1981年には同番組の司会を坂本九と共に務めた
大橋恵里子 - 元祖バラドル(現・長谷川康夫(劇作家・演出家)夫人)
豊田清 - 後にプロボウラーに転向
金井夕子 - 二度目の決戦大会で合格
北野玲子 - 元は北海道中央バスのバスガイドだった
川崎公明→京壮亮→加川明 - 元は子役(劇団ひまわり)出身
ポップコーン - 浪花の兄妹デュオ
菅沢恵子
井上望 - 現・エド山口夫人
鯨井ゆかり - 二度目の決戦大会で合格。デビュー当初はOPAというラテン音楽グループと共に活動。番組出身者の中では特別な例
甲斐智枝美
柏原芳恵
北原裕
杉田愛子
堤久美子
宮原巻由子 - 出身者の中では珍しくまずドラマでデビューした。柴葉子、堤久美子よりも、さらに歌手デビューには時間がかかった
水谷大輔
矢野良子 - 元は京都市内のOLだった
松本泰司 - 二度決戦大会に挑戦するもプラカードは一本もあがらなかったが、二度目の挑戦の時には特別に優秀ということで「何らかの形でデビューさせますからね」と阿久がコメント
小泉今日子
中野美紀
河上幸恵 - 引退後、故郷の神戸のCATVのキャスターやピアニストとして活動
田中さとみ
中森明菜 - テレビ予選3回目の挑戦で合格
水谷絵津子
吹田明日香 - 後にニュースキャスターに転向した。NHK『生活ほっとモーニング』に出演していた
松尾久美子
ルー・フィン・チャウ - ベトナム出身
松本明子
太田貴子
高橋美枝 - 後に「風堂美起」のペンネームで作詞家に転向した
岡田有希子
宮野比呂美 - 海外留学を経て、ニュースキャスター・レポーターに転向。TBS『JNNニュースコール』(中期)では柴田秀一アナウンサーのパートナーを務めた
金子美香
愛田悦子
小椋幸子
滝里美
鈴木ゆかり
久保田篤 - 結局、番組を通してのソロデビューはならず
決戦大会でスカウトされなかった出場者 [編集]
マッハ文朱(この回の合格者に山口百恵がいた)
中真理子(この回の合格者に梶たか子(最優秀賞)、片平なぎさ、小林美樹がいた。その後『全日本歌謡選手権』に挑戦、1週落ちるものの審査員の裁量で再挑戦の機会が与えられ、10週連続で勝ち抜いた)
佐久間レイ(二度決戦大会に挑戦もスカウトされず。最初の挑戦で審査員奨励賞を受賞(その時の最優秀賞は河上幸恵)、2度目の挑戦時の最優秀賞は中森明菜)
内田春菊
新井由美子
本田美奈子
徳永英明(本田と徳永が出場した回の合格者に松本明子がいた)
日野美歌(テレビ予選で敗退)
寺島まゆみ(テレビ予選で敗退)
柳葉敏郎(テレビ予選で敗退)
その他
古手川祐子は番組に何度も応募したが、別のオーディションを受けチャンピオンになり女優デビューした後に書類選考を通過した。
田中美佐子は番組に応募したが、返ってきたのは公開録画の観覧案内だったという。
野沢直子は番組に応募したが、一次審査で不合格だった。
大江千里は番組に応募したが、予選会で不合格だった。最終審査まで進んだかは不明。ちなみに松本明子とは偶然にもデビューが同じ日(1983年5月21日)だった。
河合奈保子は番組に応募するも、書類選考の段階で選外となった。
放送回のエピソード
この節は執筆中です。加筆、訂正して下さる協力者を求めています。
100回記念
1973年8月26日放送は通常の審査と結果発表に加え、これまでの番組出身者が一堂に登場。同時に森・桜田・山口の「花の中三トリオ」が確立した。
200回記念
200回を記念し、ハワイ大会が開催された(放映は1975年5月11日・18日(第189回・190回))。
1975年7月27日放送は100回記念の時と同様に、通常の審査と結果発表に加え、これまでの番組出身者が登場した。
300回記念
400回記念
1979年6月3日放送は通常回の後楽園ホールを飛び出し、巨人軍多摩川グラウンドからの放送。
『スタ誕』デビュー者と、審査員が阿久悠監督・森田公一コーチ率いる紅軍「レッドスターズ」と、都倉俊一監督・中村泰士コーチ白軍「ホワイトスターズ」に分れてソフトボール大会をした。また審判を萩本が務めた。実況(兼ナレーター)は、当時局アナの徳光和夫が担当した。
参加したデビュー者の背番号は、デビューした順番が付けられた(例えば桜田淳子は7、山口百恵は10番、岩崎宏美は35番という風に)。また当時レギュラーだった黒部幸英は01番、雪吹優次郎は02番と変則番号で参加した。なお阿久監督は90番、都倉監督は80番だった(当時は90人もデビューしていなかった)。
ユニフォームは、レッドは白地に黒のストライプ、ホワイトは肌色無地で、胸マークは双方とも番組タイトルだった。また女性歌手用は双方ともホットパンツ状で、上半身部はレッドは赤のラグランスリーブ付き、ホワイトは襟付きであり、更に頭にはサンバイザーを付けていた(男性は野球帽)。
フェンスには番組スポンサー(これは後楽園ホールでのバック装飾も同じ)のほかに当時のネット局のロゴ(読売テレビは現行のytv'ロゴではなかった)が描かれていた。
勝負は、4-1でホワイトスターズの勝ち。最高殊勲選手賞は、デビュー間もない井上望(背番号60)が受賞した(理由は「5回完投したから」)。
なお勝利チーム「ホワイトスターズ」の都倉監督と中村コーチは、勝負には勝ったものの、「メンバーの内3名出し忘れた」という責任で、「バツ賞」(つまり罰ゲーム)として、グラウンドを1周させられた。
最後は、萩本球審を出演者全員で胴上げして締め括った。
萩本最終日
萩本が最後の司会を務めた1980年4月6日(第443回)放送は、通常のレギュラー回で結果発表のあと、次期司会者(谷隼人&タモリ)と萩本時代の出身者が登場し、萩本のお別れに、何人か涙ぐんだ。
スタッフ紹介のあと、萩本と同時に番組を卒業する井上れい子とクロベ・ユージローと同時にゲートに立ち去った。
萩本は次期司会者の2人にメッセージを送った。
山口百恵の最後の出演
1980年10月12日(第469回)放送は、通常の審査と結果発表は行わず、前週に引退コンサートを行った山口百恵を送り出す特集を組んだ(収録は同年9月)。
百恵が『スタ誕』での思い出を萩本や森昌子・桜田淳子、審査員と振り返り、代表曲を披露した(「としごろ」、「横須賀ストーリー」、「プレイバックPart2」、「秋桜」、「しなやかに歌って」、「ロックンロール・ウィドウ」、「さよならの向う側」)。途中で森と桜田が百恵に「新妻に捧げる歌」を披露した。
ラストは森・桜田と「明日に架ける橋」を歌い、百恵の有終の美を飾った。
500回記念
1981年3月29日と4月5日放送は、通常回の後楽園ホールを飛び出し、日本武道館からの放送。
全デビュー者がメドレーでデビュー曲を数小節ずつ歌ったが、引退者はデビュー当時のポスターとともに出席できない理由が会場からアナウンスされた。
その時点での司会者は坂本九・石野真子が担当しており、それに加え萩本欽一も会場に駆けつけた。
この回の記念放送では坂本時代のロゴではなく、萩本・谷&タモリ時代のロゴが使用された。
池田文雄プロデューサーは、当時胃の疾患で入院しており、不運にも番組を直接見届けることはできなかった。
番組の終焉
番組の衰退は萩本の降板後から始まった。萩本降板後の1980年以降、「ホリプロタレントスカウトキャラバン」に代表されるように芸能事務所が直接アイドルをスカウトする形式が定着化し、番組への応募者も徐々に減少していった。谷&タモリ時代、坂本時代、やすきよ時代も決戦大会の合格者は出ているものの、人気歌手が徐々に少なくなっていく。さらに、1982年10月にスタートしたフジテレビ『笑っていいとも!増刊号』が若者中心に流れ、司会者・審査員を頻繁に交代し、ルールを変えるなどのてこ入れを行ったが、これらも功を奏さず視聴率は下降線を続け、ついに1983年9月25日をもって12年・619回の歴史に幕を閉じた。  

最終回
最終回には初代司会者の萩本からVTRによるコメントがあった。番組冒頭に番組出身の歌手が集結し(復帰したばかりの石野真子も出ていた)、ナレーターの伊藤英敏が5分間紹介した。また、前週まで末期の段階でGC規定数週に満たなかった出場者が2人出たため、その週にクリアした出場者は認定書を贈られた。番組エンディングには今後デビューが見込まれる合格者を紹介した後、全員で番組テーマ曲「スタ誕賛歌」を歌った。
「スタ誕賛歌」の前奏部分で「12年の足跡」を縦向き横文字ロールで紹介した。応募総数が約200万通、予選参加総数が約60万人、番組出場者総数が5500組、うち決戦大会出場者総数が423組、うちプロデビュー者は81組。終了時点で41組が現役で活躍し、以降のデビューを控えていた者が18人いた。
番組終了後
1989年10月に徳光和夫司会の特番『スター発見』というタイトルでリメイク版を放送した。また、翌年逸見政孝司会の特番『ザ・スカウト』も放送されている。
1993年12月31日放送の特別番組『スーパー電波バザール 年越しジャンボ同窓会』の枠内(1コーナー)と、1994年3月の『木曜スペシャル』の枠内で、番組終了10周年記念の同窓会の模様が放送された。場所は新高輪プリンスホテル(現・グランドプリンスホテル新高輪)の大宴会場「飛天」で、放送日前日に事前収録された。これも司会は徳光和夫だった。
2008年8月1日に放送された単発スペシャルドラマ『ヒットメーカー 阿久悠物語』において、当番組のセットや構成(初代司会の萩本時代のもの)が再現された。また、桜田淳子が出場していた秋田予選のフィルムなど秘蔵映像も交えた。
『スタ誕』以後の日本テレビの新人歌手オーディション番組として、2005年4月から2010年3月まで放送された『歌スタ!!』がある。
スタッフ
(1980年時点のもの。萩本が降板する頃)

監修:阿久悠
構成:河村シゲル、太田イサム、源高志、鈴木しゅんじ、詩村博史 / 萩本欽一
振付:土居甫
アコーディオン:横森良造
編曲:高見弘
チーフプロデューサー:池田文雄
プロデューサー / ディレクター:金谷勲夫、清水和夫、宮嶋章、吉岡正敏ほか
製作:日本テレビ
なお、地方収録の場合は各ネット局が制作・技術協力として参加した。