◆1959.3.10チベット・ラサ蜂起 |  ヌーhiron

◆1959.3.10チベット・ラサ蜂起

1959年3月10日 

祖国チベットとダライラマ法王を守るため,  

ラサ蜂起した


当時のチベットは、中国支配が本格化する一方、反中国のゲリラも活発化し、東チベット、カムとアムド全地域は戦争状態と なり、ゴンポ・タシたちゲリラの襲撃は大胆さを強めていった。中国軍も容赦なく反撃し、爆撃、砲撃によって広い地域が廃墟と化し、1959年には、数千に のぼる難民がラサに逃げ込み、市外にキャンプを張った。ラサ市民は6万人。駐屯する中国人民解放軍4万人、食料を要求されるラサは窮乏していた。

珍しくダライラマ14世に、人民解放軍から「軍司令部での観劇の誘い」が来る。310日に決まったその招待、中国側は「形式ばったことは省きたいので、お供は連れずお一人で」チベット兵は連れてくるな、どうしても必要なら、丸腰の護衛だけにしろと主張し、すべてを極秘で運びたいとも言った。何もかもが胡散臭く思われたが、法王側は事を荒立てないよう一握りのお供だけで行くことに同意する。

市民たちは「もしや法王が誘拐されるのでは」と大きな不安を抱いた。中国から法王を守ろうと3万もの人たちが、ノルブリンカ離宮を取り囲んだ「チベットはチベット人に返せ」と要求し始める者もいた。一触即発、激情に駆られた民衆が中国軍を襲うかもしれない。

もはや観劇どころではない。群衆を落ち着かせるため「法王は決して司令部へは行かない」と二度も確約し、リーダーの大半は市内に戻り新たなデモを組織しはじめたが、依然、離宮の外には多勢の群衆が立ち去ろうとせず心配げに残っていた。それは非常に危険なことだった。
 

 
 hiron

 

人民解放軍の大砲はダライラマの離宮"ノルブリンカ"を射程に収めていた。一週間後の3月17日、2発の大砲が発射され離宮近くに着弾した。ダライラマ及び政府閣僚は、これ以上とどまるのは危険だとの結論に至り、変装し夜陰に紛れて極秘にラサを脱出した。

3月19日には最悪の事態が起こった。中国軍はノルブリンカ宮殿に一斉砲撃を始め、それは3日間続き、貧弱な軍備のチベット軍はあっけなく敗北。宮殿周辺は足の踏み場のないほどチベット人の死体で溢れかえった。3日間で1万人以上が殺戮され、10カ月間に、中央チベットだけで87,000人のチベット人が殺された。

もし法王が中国軍に拘束されたり、身に危険があれば、ラサ市民、いや国民のすべてが中国軍に対し攻撃を仕掛け玉砕しただろう。法王は、至る所に中国軍が配備されているなか、勇敢なカンパゲリラたちに守られ3月31日、インドに到着した。その年、法王とともに生きたいと、約2万の人がインドへ亡命した。法王にお会いしたい、仏教の修行をしたい、チベット人としての教育を受けたいと、58年たった今も亡命は続いている。
 

 hiron-カムパの護衛で