明けましておめでとうございます――私は、この言葉が大嫌いだ。

 

 思えば、私自身、一つ、またひとつと齢を重ねる中で、自分(の考え)が徐々に偏狭なものになりゆくさまに、自覚がないとは言わない。とはいえ、私がこのような思いを抱き始めたのは、はるか昔の幼少のころだ。年明け早々に誕生日を迎える私は、自身そのことをめでたいとはまったく思っていないのに、周囲の連中が、私の気も知らずに(というより、そんなものを知る必要もないのだが…)連呼するおめでとうの言葉に、正直な所、私は、反吐をつく思いがした。

 

 そもそも、人間なるものは、この浮世に生を受け続ける限り、新しい年を迎えるのは当たり前のことであり、365(あるいは366)日後には、また同じ場面に立ち合うのである。結婚や出産、親なり連れ合いなりの死の折、思わず感極まる人も多いだろう。だが、それらはいずれも、幾十年もの、人間の辿った歴史を鑑みれば短く、とはいえ、人の一生という点から見れば果てしなく長い人生の中で、そうそう巡り合う経験ではないはずだ(ちなみに、間もなく35歳になろうという私は、どれ一つとて経験したことはない)。

 

 このように考えれば、否、考えれば考えるほどに、その生涯において、幾度となく経験し、且つ、高々日付の変わるだけの新年の到来如きにのぼせ上がり、浮かれ調子になる人々の気持ちを私は一向に理解出来ない。

 

 ゆえに、私は、正月という、じつに瑣末な理由で馬鹿騒ぎ、またそれに乗じる世間とやらの雰囲気とは縁遠い生き方であった。昨今、不要不急という言葉がそれこそ世間を席巻(とはいえ、間違っても時の為政者風情にこの言葉を吐かれる謂は、われわれ主権者にはない)するが、私は、それ以前から、やれカウントダウンだの初詣だのに馳せ参じたことはないし、初日の出なるものを拝んだことさえない。

 

 だいたい、24時間おきに日付は変わるというのに、なぜ、12月31日の夜だけ、人はあれほどまで狂喜乱舞出来るのか。地球の自転の続く限り、来る日も来る日も太陽は昇るのに、1月1日の朝だけ日の出を拝もうというのは、無限に供給されしわれわれの生命の源たる自然の恵みに対する冒瀆とまではあえて申さぬまでも、唾することになりはしないか。そして、私が最も許し難く思うのは、宗教に帰依するわけでもなければその教義に従うわけでもないのに、行楽よろしく寺社仏閣を初詣と称し訪れる人々の振る舞いである。

 

 生けとし生けるものには神が宿る――古代的多神教風土こそ、大陸文化の影響を大きく受けつつも独自の発展を遂げし日本文明の特質且つ長所たることは、私も理解している。だが、二言目にはグローバルなる手垢に塗れた言辞を吹聴し、またその言葉にまんまと踊らされる(とうに欧米の人民は、この言葉がユダヤ金融資本の振り撒く戯言であると心得ている)割には、宗教なるものにあまりに無自覚な日本人は、言行不一致も甚だしい、と私は思うのだ。

 

 20代半ば、フランスに逗留した私は、写真機を下げ、観光案内書を片手に教会や聖堂に躊躇なく足を踏み入れる日本人観光客を目にするたび、私は、同胞として恥ずかしい気持ちになった。勿論、拝観料や入園料なる名目で金を巻き上げる宗教施設(だいたい、教えの道に生きるべき宗教家が、世俗の金儲けに目の眩むのは言語道断だ)には、堂々と大手を振って入ればよい。けれども、市井に生きる人々の心の拠り所たる町の教会堂にのこのこ足を踏み入れるは、ユダヤ・キリスト一神教風土の重圧のなかを生きるフランスの人々に対し失礼千万、そして、その尊厳を踏み躙る、許されざる振る舞いのように、私には思えたのだ。

 

 ゆえに、宗教というもの、とりわけその教義に対する懐疑の念を臆せずに言明する私は、初詣に限らず、年間を通し宗教施設に立ち入ったりはしないし、よしんば立ち入ることのあるときは、所作振る舞いは言うに及ばず、身なり一つにも十分に注意を払うよう心掛けを忘れたことはなく、気温の寒さを理由に外套を身に纏ったまま寺社に足を踏み入れることはない。とはいえ、よもや世間の人々は、こんなことを考えたことさえないのだろう。

 

 ああ、散々に、越年如きに浮かれる世間に対する鬱憤の思いを書き散らしてきたが、物事の本質に肉迫しようともせず、単に周囲の雰囲気とやらに左右、否、支配される人間を量産する最大の元凶は、やはり学校教育にあると私は思う。年度のまとめに当たる、3学期頭の大切な授業時間を浪費し教師が生徒達に強いるのは、それこそICT(学習法の基本は、師の言葉をひたすらに帳面に書き取ることだと思うのは私だけだろうか)の時代にはそぐわない書き初めや馬鹿の一つ覚えに終始し、健全な思考力、批判精神を奪うだけの百人一首、果ては新興宗教の集会を彷彿とさせる薄ら寒い今年の目標発表会だ。だいたい、生徒達に、目標なるを口にさせることじたい、思想・良心の自由(日本国憲法19条)に対する看過出来ぬ圧迫であることは明白(とくに、憲法尊重擁護義務[同99条]を負う公立学校の教師陣には、その自覚がなさ過ぎる)だし、そもそも、さしたる目標もなく生きる人間は、そのことを罪悪に感じなければならないとでも言うのか。私は、この論理を盾に教師達に論戦を挑み、教師達は、私ひとり論駁出来ず、皆悉く敗れ去ったのだが、教師に従順な振りをするのが上手い人ほど、こうして飼い馴らされていくのだと、そのとき私はつくづく思った。

 

 今年の年明けは、おつむのほどは人一倍弱いくせに、過剰なまでの自意識と自己顕示慾だけは人一倍強い女狐小池やイソジン吉村らに目の敵にされ、翼賛メディアによって血祭りに上げられた、飲食業に従事する人々や夜の蝶達を筆頭に、お飯(まんま)の食い上げとなり、生きるも死ぬもなに次第、今を生きるのもやっとという人が、私達の周りにもごまんといるだろう。それを百も二百も承知のくせに、この翼賛メディアに巣食う連中は、嘘をつくだけに飽き足らず、道化の振りをして、心ないおめでとうの言葉をいけしゃあしゃあと口にし、こうした人達の心を深く傷つける。差別は良くない――来る日も来る日も嘘をつき続ける傍ら、こんな舌先三寸を宣い、安っぽい正義感を振り翳す此奴らの「2021年の皆様の御多幸を祈念いたします」との言葉に、私は、怒り心頭に発する思いだ。よく言うよ、報道の自由という美名の下、真実を報じない自由を行使、嘘を報じる自由を満喫し、80年前のナチス・ドイツも驚く言辞の数々で無辜なる人民に不幸と苦しみを与え、疑心暗鬼、敵意、差別、分断を助長するその所業は、他者を慮り、寄り添わんとする心とは対極にあるのだというこの矛盾にさえ、朱に交わり真っ赤っ赤になった此奴らは気づくことが出来ぬのだ。補助金だの日銭だの、目先の金ほしさに翼賛メディアの尻馬に乗る大学教授も東大法学部出の元官僚も、学歴と知識量を大仰にひけらかす芸NO人も、私に言わせれば馬鹿の揃い踏みだ。学ぶとは生きること、生きるとは気づくこと、を胸に、私は、36年目の人生を生きよう。