前回は、筆者(辯者)の理想とする、現代的共和政の築く社会のありようを語りつつ、そうした社会の実現に懸ける筆者(辯者)の思いの綴られし部分を読みました。今回、目を通すテクストは、前段落の終わり、「私の人生の光明(la lumière de ma vie)」と筆者(辯者)に言わしめる、現代的共和政に立脚した社会に対し抱くだろう諸〻の疑問に言及しつつ、この新しい社会(秩序)にわれ/\はどのように向き合えば良いのか、そして向き合うべきか、筆者(辯者)は、聴衆を前に滔々と語ります。なぜならば、講演の俎上に載る、現代的共和政の目指す社会の姿は、筆者(辯者)曰く、人生の根幹にも関わるほどの、従来のそれとは決定的に異なる価値観の受容をわれ/\に迫るからです。
【第十段落】
Je veux seulement dire deux choses, parce quelles touchent non au fond du problème, mais à la méthode de l'esprit et à la conduite de la pensée. D'abord, envers une idée audacieuse qui doit ébranler tant d'intérêts et tant d'habitudes et qui prétend renouveler le fond même de la vie, vous avez le droit d'être exigeants. Vous avez le droit de lui demander de faire ses preuves, c'est-à-dire d'établir avec précision comment elle se rattache à toute l'évolution politique et sociale, et comment elle peut s'y insérer. Vous avez le droit de lui demander par quelle série de formes juridiques et économiques elle assurera le passage de l'ordre existant à l'ordre nouveau. Vous avez le droit d'exiger d'elle que les premières applications qui en peuvent être faites ajoutent à la vitalité économique et morale de la nation. Et il faut qu'elle prouve, en se montrant capable de défendre ce qu'il y a déjà de noble et de bon dans le patrimoine humain, qu'elle ne vient pas le gaspiller, mais l'agrandir. Elle aurait bien peu de foi en elle-même si elle n'acceptait pas ces conditions.
私の言いたいのは、二つだけ、そして、この二つのことは、問題の本質ではなくて、一貫性ある精神の働きと思考の動きに関わりのあるものです。まず、とても多くの関心や自身の習癖を揺さ振るに違いない、そして、人生の根本そのものを一変させる、を望む、大胆なる考えに対して、あなた達には、あれこれと要求をする権利があるのです。あなた達には、その考えに対し、真価のほどを示せよ、と要求をする権利があるのです、それはつまり、どのようにして、その考えは、この政治的、そして社会的大変革と関わりをもつのか、また、どのようにして、その考えは、この大変革に溶け込み得たのか、的確に言ってみせろと要求をする権利があるのです。あなた達には、その考えに対し、どんな法的、または経済的な一連の手続きを経て、その考えは、既にある秩序から新しい秩序への移行を滞りなく行うというのだろうか、言ってみせろと要求をする権利があるのです。あなた達には、その考えに対し、その考えから導き出され得る基本的用途は、国民国家の経済的、また道徳的な活力を増大させるのか、問い質す権利があるのです。そして、この考えは、人類の遺産の中に既にある、高貴なる、且つすぐれたものを擁護出来得ると示すことで証明しなければなりません、と言うのも、この考えは、そういったものを食いつぶすために現れたのではなく、高め上げるための考えなのです。もしも、この考えが、この状況を受け入れないと言うのであれば、この考えは、それじたい、ほとんどまったく信頼の置けないものとなりましょう。(私訳)
今回、目を通すテクストを眺めつつ考えたいのはつぎの二点、語句の反復の齎す聴衆に対する印象、そして、論理の展開を指し示す語句を用いた語り口とその変化、である。
まず、着目したいのは、本文中、都合四回(第二、三、四、五文)御目見得する、vous avez le droit de...(あなた達には、…をする権利があるのです)なる言い回しである。これは、以前にも指摘したように、フランス語のテクストは、ひとつの段落において、同じ語句を複数回に亘り繰り返し用いることを極端に忌避する(たゞし、人称代名詞を除く)。とりわけ、書き言葉に顕著なこの傾向、言うなれば、文章の「お作法」とでも言うべきものを、フランス人は、学校教育を通し幼少の頃より叩き込まれる。講演の席上、筆者(辯者)の口より発されし文言を書き留めたこのテクストは、厳密に言えば、書き言葉には属さない。とはいえ、高等教育進学率の限りなく低い二十世紀初頭のリセ(この時代のリセは、いま[後期中等教育機関]とは異なり、高等教育準備課程、言わば大学の「般教(パンキョウ)」であった)に通う生徒達を前に、秀才の揃い踏む高等師範学校卒の筆者(辯者)は語る。ゆえに、聞き手たる生徒達は、筆者(辯者)の用いるこの言葉遣いに違和感を、つまり、筆者(辯者)のなす同じ語句の意図的な反復に気づけない筈はないのである。文法教科書の教えそのまゝに文章を認めれば、[...] vous avez le droit de..., de..., de..., et de...となる。この文章は、ややもすれば冗長な印象を与えこそすれ、違和感を覚えさせはしない。これに対し、筆者(辯者)の用いる語句の反復の齎す違和感は、筆者(辯者)の語る、聞き手に留保されし諸〻の権利の一つひとつに、聞き手の注意を振り向けさせる効果をもつ。前に示した、フランス語の基本文法に即した、教科書通りの文章は、違和感を覚えさせないがゆえに、文章中に並ぶ権利の数〻を、聞き手は、列挙されし目録のごとく、一息にその内容を受け取るが、筆者(辯者)による、意図的な語句の反復は、聞き手に一瞬の佇立を強いる。そして、この一瞬、つまりは一呼吸のあることにより、聞き手は、自ずとその後に言及されし内容に意識を向けることになる。
とはいえ、筆者(辯者)の提示する諸〻の権利は、脈絡の一つもない只の寄せ集めではないことを、筆者(辯者)は、論理の展開を指し示す語句を用い聴衆に示す。第二文冒頭の語句d'abordは、副詞ensuiteやenfinと組み合わせ、D'abord, ..., ensuite, ..., (et) enfin, ...(まず初めに…、それから次に…、そして最後に…)のように、論理の展開を示す、あるいは補足的情報を累加的に提示する。とは言うものの、この第二文冒頭のd'abordは、前に言及した副詞との併用はなく、独立的に用いられている。つまり、このd'abordは、前述した論理の展開や補足的情報の累加的提示を目的に用いられるのではなく、その後に語る内容に対する聞き手の関心、そして意識を向けさせるための、言わば旗印として、文頭におかれた語句であり、その旗印は、第六文冒頭の接続詞etにより話題の転換のなされるまで揺らめき続ける。ゆえに、この旗印のもとにある文章(第二~五文)は、ある前提(このテクストでは、筆者[辯者]の提示する権利)のもとにつぎなる前提(権利)はあるとする、前に取り上げた、D'abord, ..., ensuite, ..., (et) enfin ...の形をとり示される論理の展開とは趣を異にし、何れの文章(の内容)は、どれも等しく列挙されるに過ぎない。そして、第六文冒頭の接続詞etを境に、筆者(辯者)は、聞き手に提示した諸〻の権利に対する自論を披歴するのである。