今回は、まず、前回取り上げたテクストの内、言及するに至れなかった第二~七文に関し、その内容を整理しよう。前回、とくに詳細に読み進めた第一文において、筆者(辯者)は、自身の価値のおく現代的共和政の前提にあるものとしての民主政や普通選挙、そして人間に備わる尊厳について言及し、その上で、前段落における筆者(辯者)の指摘たる、十九世紀(前半)に顕著となる現代的共和政の理念と精神の雲散霧消した理由を筆者(辯者)は、先に述べた前提に対する価値、そしてその意義を民衆が見失ったことにあると指摘する。そして、われ/\の生きるこの社会に現代的共和政を齎した原動力とは何か、を第二~三文において、聴衆に対し高らかに宣言する筆者(辯者)は、その後(十九世紀前半)弊えし現代的共和政とその理念と精神の敗北した理由を語ることを余儀なくされる(第四文)。とはいえ、現代的共和政に価値と意義を見出す筆者(辯者)は、第五文以降、自身のそうした思いを切々と、そして滔々と聴衆を前に語り尽くさんとするのである。そして、筆者(辯者)は、この条りを語るにあたり、動詞の叙法と時制に直説法半過去形を多用する。語りの視点こそ過去に振り向けつつも、未完了相を示す直説法半過去形を用いて語りを進める筆者(辯者)の思いは、自身の信奉する現代的共和政の理念と精神は未だ失われん、と聴衆に語り掛けるかのようである。
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前回は、十八世紀末にその姿を現した、現代的共和政の源泉とも言える、その本質の解明を皮切りに、その後十九世紀前半に訪れし、その理念と精神の後退した理由の分析を踏まえ、現代的共和政のもつ意義に改めて思いを馳せる条りを読みました。今回、目を通すテクストは、その続き、現代的共和政の崇高なる理想に思いを致す筆者(辯者)の目に映る、現下(二十世紀冒頭)のフランス社会における現代的共和政の受容、そしてその理念と精神の、一世紀を経た勝利を筆者(辯者)は声高に語るのです。
【第八段落(後半)】
C'est pourquoi elle devait avoir le dernier mot. Nombreux sont les glissements et nombreuses les chutes sur les escarpements qui mènent aux cimes ; mais les sommets ont une force attirante. La République a vaincu parce qu'elle est dans la direction des hauteurs, et que l'homme ne peut s'élever sans monter vers elle. La loi de la pesanteur n'agit pas souverainement sur les sociétés humaines, et ce n'est pas dans les lieux bas qu'elles trouvent leur équilibre. Ceux qui, depuis un siècle, ont mis très haut leur idéal ont été justifiés par l'histoire.
ゆえに、共和政は、反論を撥ね退けられたに違いありません。高みへと通ずる急斜面では、滑ることは多く、落下することも多くありますが、その頂きには、人を引きつける強さがあります。とはいえ、共和政は、乗り越えたのでありました、と言いますのも、共和政は、今も尚、その高みへと向かっているから、そして、人間は、その共和政の高みを目指さなければ、自らを高めることは出来ないからです。薄鈍による支配は、人間社会に対し絶対的な影響を及ぼすことはなく、また、そうした社会が安定を見出さんとするのは、底辺の場所ではないのです。この一世紀に亘り、理想をとても高く掲げた人達の正しかったことは、歴史によって証明されたのでありました。
今回、読み進めるテクストにおける筆者(辯者)の語りは、前回取り上げたテクストの後半部(第五文~)と同じく、筆者(辯者)の尊ぶ現代的共和政の価値と意義に纏わる自説の展開に費やされるが、このとき着目したいのは、その語り口の微妙なる変化である。前回読み進めた部分を含む第五~八文において用いられる動詞の叙法と時制は、直説法半過去形である。これは、前回も指摘したように、語りの視点を過去に移しつつも、未完了相を示す叙法及び時制を用いることで、間接的に現在(の状況)を聞き手に示唆する。ところが、つぎの第九文を境に、語りの中の動詞の叙法と時制は大きく変わり、直説法現在形(第九文、第十文の従属節、第十一文)並びに直説法複合過去形(第十文の主節、第十二文)が多用される。その違いとは何か、少し考えることにしよう。このとき、思いを馳せるべきは、筆者(辯者)による語りの視点はどこにあるか、である。直説法現在形の場合、語りの視点の在処に疑念を差し挟む余地は微塵もないのは自明の理だが、直説法複合過去形の場合、その在処とは一体、何処なのか。直説法複合過去形は、助動詞avoir乃至êtreの直説法現在形の活用に本動詞の過去分詞を附すことで得られる時制である。と言うことは、つまり、語りの視点は現在にあるのである。ゆえに、「共和政は、乗り越えた(La République a vaincu)」(第十文)、「理想をとても高く掲げた人達の正しかった(Ceux qui, [...] , ont mis très haut leur idéal)」(第十二文)、「歴史によって証明された(ont été justifiés par l'histoire)」(同)、言及されし内容は、いずれも過去の出来事であるが、その過ぎ去りし日〻の上に「いま」の現代的共和政はあるのだという筆者(辯者)の考えを直説法複合過去形は示す。つまり、第五~八文における筆者(辯者)の語りは、現代的共和政の十九世紀前半に辿った諸相をその視点を過去に移しつつ語ることで、筆者(辯者)は、現在(の状況)を逆照射するのに対し、第九~十二文における語りは、過去の出来事を現在の視点から遠巻きに眺めることで、現代的共和政の発展と展開、そして成熟の道筋を示し、以て現代的共和政のもつ価値と意義を強調するのである。