毎年、四月末に開催の東京レインボープライド、今年度は中止と相成った。その理由は勿論、最早聞き飽きた「新型コロナウイルス」を巡る馬鹿騒ぎだ。あゝ、まったく、王権神授的独裁者気取りの時の為政者の戯言に跪く愚者に「プライド」もへったくれもありはしない。

 

 とはいえ、これは性的少数者に限らず、人権、環境保護、児童、障碍者、高齢者福祉、女性の地位向上…等々を標榜する社会活動家の嵌り易い陥穽である。彼らは、純粋に、自身の矜持や信念に従い、崇高なる獲得目標の実現に向け日々勤しむものの、その活動を行政に「評価」され、「感謝」だの「表彰」だのをされた途端、権力を前に物の見事に転び、挙句の果て、その掌の上で踊る羽目になり、更には、食い扶持のための政治「屋」稼業に精を出す連中の票集めの口実に利用される活動家は、枚挙に暇がない。

 

 思えば、日本国憲法施行七十三年、私を含め、いまや日本人の大半は、日本国憲法の理念と精神の下に生まれ、育ち、ゆえに、己の享受する自由や権利は、水や空気と同じように、当たり前に「そこにある」ものと思いがちだ。だが、人類の辿った、古の日々を振り返れば、力なき市民はいつだって、数多もの尊い生命という代償を払い、自分達の渇望する自由や権利を「勝ち得て」来たのである。私は、反権力一本槍を称揚するつもりは毛頭ない。とはいえ、日本国憲法の理念と精神を擁護するためとあらば、私は名誉ある死を厭わない。この生命を賭すだけの価値は、日本国憲法の理念と精神にはあると私は考える。日頃、「婚姻の自由」や「多様な性にイエス」と口にし、また声高に訴える活動家諸氏には、これだけの覚悟はあるだろうか、私は是非問いたい。

 

 自身の権勢を誇りたいだけの(安倍)、七月に執行の都知事選挙に向け顔を売りたいだけの(小池)、時の為政者の発する言葉の裏(でさえない)にある真意を泰然自若、つまり冷静に、且つ理性的に摑み取る振る舞い一つせず、只唯々諾々と従うだけの、そして、権力の座にある者共と力なき市民との間にある「一線」を意識出来ない、換言すれば、矩を踰えた者は、自身の獲得目標の実現には未だ程遠く、寧ろ遠のき、否、風前の灯火であるという、この冷厳なる現実をまずは心得るべきであろう。

 

 最後に一つ、蛇足。力なき市民による権利要求は、世の東西、そして古今を問わず、権力の座にある者共に対し「突きつける」ものであり、間違っても「お願い申し上げる」ものではないのである(この基本的態度さえ実践出来ない活動家は巨万といる現実…トホホ)。