『ふらんす』(白水社)に連載の記者・西村カリン女史の論考を教材に、フランス語の読解力向上を図るとともに、フランス人の価値観やものの見方、感じ方、そして着眼点について深い理解を目指しましょう。今月、女史の俎上に載るのはExamen de français、フランス語の試験です。自称「保守系」政権による見掛け倒しの小手先の「改革」は悉く失敗に終わった、あのセンター試験をじっさいに解いてみた女史は、この試験に対し諸〻疑問を抱いたと言います。そして、女史の率直な疑問の数々は、試験(入試)に纏わる、日本とフランスの間に横たわる根本的な目的や意識の違いを浮き彫りにします。
Sur les conseils de mon mari, j'ai passé cette année (pour de faux) l'examen « center shiken » de français. Résultat : 191 points sur 200. J'ai mal répondu à deux questions que je n'avais pas bien comprises (dans mon cas, c'est plus un problème de japonais que de français). Cet examen a suscité en moi nombre de réflexions, dont je vous livre les plus saillantes. Je n'aime pas le format « questionnaire à choix multiples ». Je préfèrerais qu'on réponde en écrivant une vraie phrase, des vrais mots et non en choisissant un numéro. Surtout quand il s'agit de cocher le chiffre correspondant à un mot qui arrivera en 5e place dans une phrase de 9 mots dont 6 figurent en vrac dans une liste. Vous ne comprenez pas ? Normal, ce n'est pas du français. Ce mode contrôle de connaissances tend selon moi à fabriquer des adultes qui choisissent entre des propositions faites par autrui au lieu d'exprimer leur avis, leur pensée, leur conclusion.
Ensuite, je me suis interrogée tout au long de la cinquantaine de questions sur le niveau de français attendu des étudiants : car il y a une énorme disparité dans les questions. Certaines sont accessibles à des débutants, d'autres exigent presque un niveau expert, mais il est très facile aussi de se tromper car la formulation est parfois ambiguë. Personnellement, je préférerais nettement un examen avec moins de questions, mais qui permettrait vraiment d'apprécier le niveau de l'étudiant en lui demandant de rédiger un bref texte en français sur un thème donné et de répondre à 5 ou 6 questions à propos d'un article de presse par exemple.
En attendant, pour mieux appréhender la conception de ce « center shiken », je serais heureuse d'en discuter avec un professeur japonais de français.
私は、夫の度重なる勧めを受け、今年、フランス語の「センター試験」を(物は試しと)解いてみました。その結果は――二百点満点中百九十一点でした。私は二問、間違えたのですが、その二問を私はよく理解出来ませんでした(私の場合、フランス語というより日本語の理解の問題です)。私は、この試験には多く考えさせられました、その中から、私が特に考えさせられたことをお話ししたいと思います。私は、「多肢選択式問題」という形式は好きになれません。私は寧ろ、正しい文章や語を書いて答える問題が好みで、番号を選んで答える問題をやはり私は好みません。とくに、九語からなる文章で、その内の六語が脈絡もなしに一覧されているその中から五番目にあたる語に対応する数字をマークする問題ときたら。あなたは、お分かりにならないでしょう。それもそのはず、あんなものはフランス語ではありませんもの。こうして知識を確認する、そのやり方は、私に言わせれば、自分の意見や考え、結論を示すことはせずに他者の拵えた提言の中から選ぶだけの大人達を生み出すと思われます。
そして、五十近い問いに答えながら、私が疑問に感じたのは、生徒達に求められるフランス語の程度についてでした、と言いますのも、これら問いには、その程度の差は驚くほどあったからです。いくつかの問いは、初心者にも理解出来るものですが、他の問いは、ほぼ熟練の水準を要求するもので、且ついとも簡単に誤答します、なぜならば、問いの記述は、屢〻紛らわしいものだからです。個人的には、断然、もっと問いの数を少なくして試験をしたら良いと思いますが、たとえば与えられたテーマに関してフランス語で短い文章を書かせたり、新聞記事に関する五つないしは六つの問いに答えさせたりすることで、生徒の習熟度を真に評価出来る試験が良いと思います。
とはいえ、この「センター試験」の考え方をもっとよく理解するためにも、私は、フランス語を教える日本人の先生とこのことについて話し合えれば幸いと思っています。
出典は、NISHIMURA-POUPÉE, Karyn, « C'est vrai ? 85 Examen de français », France, 95-4 (2020), pp.54-55、下段の日本語訳は私による。
本論に入る前に、小噺を一つ。じつを申せば、私はセンター試験なるものを受験したことはない(私大文学部専願だったため)。だが、私の大学入試を控えた二〇〇四年のセンター試験のその日、天気は霙だったと記憶にある。これに限らず、首都圏では、センター試験は雪の特異日と屢〻形容されるが、統計学的な証左はない。思えば、一月は雪の降る時季だ。主君、浅野内匠頭に忠義を尽くし、その無念を晴らすべく、吉良上野介を討ち取った赤穂浪士が、主君の眠る高輪・泉岳寺を目指し雪の中を行脚したのは、元禄十五年十二月十四日、陽暦換算では明くる一七〇三年一月三十日のことだった。そう、三百年前も今も、一月の降雪は珍しくない。とはいえ、降雪の限りなく少ない首都圏において、センター試験という、ある種のお祭り騒ぎのその日に降る雪は、人々の印象に殊更強く残るのである。
閑話休題。今年度のセンター試験、フランス語の平均点は二百点満点中百三十八.四一点(大学入試センター二月六日発表)。この数字は、年度により若干の変動はあるものの、平均点は概ね満点の七割前後、これは英語より一割程高い。その理由は至極単純、アメリカの属国たる日本の後期中等教育において、宗主国の公用語たる英語を除く外国語を履修する生徒の数は限りなく少なく、また、外国語を得意としない生徒は、態〻第二外国語を受験科目として選択しないため、受験者の大半はフランス語のよく出来る生徒達なのである。そのセンター試験で百九十一点という、素晴らしい成績を上げた女史。やはり、日本語を母語とする私達は、どう足搔こうとフランス人には敵わない。とはいえ、第三文における女史の指摘は傾聴に値する。問題文の日本語は、いずれも至って平易なものだ(と私は感ずる)が、それでも理解しにくいと筆者は述べる。蛇足だが、筆者の配偶者は日本人、また、記者として、日本語の文章理解は必須の教養、つまり、筆者は、並の高校生よりも日本語の素養はあるのだ。その女史をしてこう言わしめるセンター試験の問題文の意図を読み違える高校生がいるのも宜なるかな。
つぎに、第五、第六文に示される筆者の主張に少しの反論を。筆者は、所謂「多肢選択式問題」に否定的見解を表明するが、これは、センター試験はもとより、日本の大学入試制度を考慮したとき痛感する、こうした問題に頼らざるを得ない、日本の学校教育の抱える構造的欠陥に対する、極めて重要な示唆たると私は感ずる。フランスの、日本ふうに言えば高校三年生(terminale、一部科目は一学年下の高校二年生)の受験する統一試験バカロレア(baccalauréat)をセンター試験と対比させて論ずる専門家風情を度〻目にするが、抑〻両者の実施目的は根本的に異なる。前者は、後期中等教育修了に相応しい基礎学力の有無を問い、履修科目の大半を試験の対象とし、また、口述試験の場で自身に下された評価について反論する機会も与えられる。いっぽう後者は、国立大学入試本試験の受験者数を一定程度に絞り込むための試験に過ぎず、また、本試験の出願に際し、得点は一切開示されない。ゆえに、じっさいの出願にあたっては、世に言うところの「自己採点」により、得点の見当をつけた上で願書提出に至る。そのため、筆者の提案する(第十三文)記述式問題のような、正誤の判断、あるいは点数の計上について、添削者(たる大学の先生方)と受験生の間に齟齬の生じ易い問いは、センター試験の目的や制度を鑑みれば、相応しいものとは言えない。とはいえ、センター試験に記述式問題を導入すべきでない最大の理由は、日本の大学入試制度の抱える人員的、時間的制約ゆえによる。試験日の一週間後には早くも願書提出という前提のもと、五十五万人もの受験生の五教科七科目に及ぶ答案を大学の先生方(専任教員は年々減少するいっぽうだ)はすべて添削を終えなければならない。おまけに、センター試験の行われる一月中旬といえば、大学はいずこも学年末試験の真っ最中、その上卒業論文の提出も差し迫る時期だ。私は、第十三文における筆者の提言には大いに賛同する。だが、現実的に、その時期に筆者の提言を反映させた試験を実施した場合、過労により倒れ込む大学の先生は、一人や二人では済まない(現行のマークセンス式答案用紙でさえ、大学の先生方は、一枚ずつ丁寧に目視での確認作業に明け暮れているのだ)。
そして、この論考において、私の最も関心を抱いたのは、第十一文に示される指摘である。センター試験、フランス語の問いを解くにあたり必要とされるフランス語の理解は、実用フランス語技能検定試験三級合格程度を一応の目安とすると考えられるが(これとて生易しくはない)、じっさいに問いを解いてみた、フランス語を母語とする筆者は、問いごとの(解答のために要求される)水準の乖離に困惑する。とはいえ、この乖離に関する筆者による具体的な指摘はこの論考中にないため、如何なる評論も仕様がないが、この指摘に続く第十二文の記述を読んだ私は、ある短編小説を思い出した。清水義範「国語入試問題必勝法」、『国語入試問題必勝法』(講談社、一九八七年)所収、である。国語のとことんニガテな浅香君相手に月坂先生は所謂小手先の解答術を伝授する、この条りの言わんとするは、試験なるは、その傾向を十全に理解した上で、要求されし答案を作り上げる、ある種の要領。思えば、バカロレアの筆頭科目たる哲学(試験時間は四時間)の小論文に、日々、授業中、先生に答案の書き方を叩き込まれたフランスの高校生達は果敢に挑む。筆者の論旨にもあるように、試験の目的、内容は、フランスと日本とでは大きく異なるが、試験なるものにどう向き合えば良いのか、受験生の心得、そして心構えは、フランスの高校生も日本の高校生も、まったく変わらないのかも知れない。