前々回、そして前回と、じっさいにテクストを読む前段階として、テクストの概要について語りましたが、その説明は、冗長に過ぎたと思います。前置きはそこそこに、愈〻テクストを読み始めましょう。今回、取り上げるのは、講演の冒頭二段落。嘗て新任教師として着任したこの高校を久方振りに訪れた筆者(いや、辯者と言うべきか)は、聴衆たる生徒達に、何を語り掛けるのでしょうか。

 

 

【第一段落】

 

      C'est une grande joie pour moi de me retrouver en ce lycée d'Albi et d'y reprendre un instant la parole. Grande joie nuancée d'un peu de mélancolie ; car lorsqu'on revient à de longs intervalles, on mesure soudain ce que l'insensible fuite des jours a ôté de nous pour le donner au passé. Le temps nous avait dérobés à nous-mêmes, parcelle à parcelle, et tout à coup c'est un gros bloc de notre vie que nous voyons loin de nous. La longue fourmilière des minutes emportant chacune un grain chemine silencieusement, et un beau soir le grenier est vide.

 

      このアルビ高校に戻って来たこと、そして、この場所で、暫しまたこうして話が出来ることは、私にとって大いなる喜びであります。とはいえ、この大いなる喜びという言葉には、わずかばかりの愁いが伴っておりまして、と申しますのは、幾久しく振りに戻って参りますと、われわれは、日頃意識することのない、過ぎ去りし日々というものに、何を置き忘れてきたのだろうと、昔日に思いを馳せますとそんなことを考えてしまいます。われわれにとって、過ぎ去った時間とは、ともすれば、少しずつ、そして細切れに失っていったものではありますが、あるとき、思いがけずして目にするそれは、まとまりを持ったものであります。穀粒は、音もなく零れ散り、ついにある夜、納屋には何もなくなってしまう、そう、瞬間の長い連なりたる時間なるものは、その一瞬/\を押し流してしまうのです。(私訳)

 

 

 第一段落は、落語の「枕」に当たる、言わば一口噺である。今、演壇に立つこの地での日々に思いを馳せながら、筆者(辯者)は、過去とは何か、またどういったものか、比喩を交えつつ聴衆に語り掛ける。第一文は、所謂「お決まりの」挨拶文であるが、こうした表現は是非とも習熟したいものである。初級段階の学生は、教科書の見本文Je suis heureux(se)+inf.の+inf.の部分に自身の知る語句を代入し、表現の幅を広げようとする。勿論、これはフランス語の上達を目指す勉強の一つの定石ではあるが、本文中でのような言葉遣いにも慣れ親しまない限り、更なる上達は望むべくもない。と言うのも、フランス語は、人称代名詞よりも普通の名詞、ともすれば抽象的概念を示す名詞を主語とする構文をヒジョーに好むのであり、続く第二、第三、第四文においても、同様の表現を筆者(辯者)はとる。ややもすれば、主語そのものさえ省く嫌いのある日本語を母語とする私達には中〻理解しにくいところだが、ここでの筆者(辯者)による語りは、過ぎ去りし日々なるものを定義する一手間を介し、筆者(辯者)自身もまた、その過ぎ去りし日々に思いを馳せるその様を聴衆に対し表明する。第二、第三文の内容を第四文で敷衍し、一呼吸(段落の切れ目)おく――演説の名手は冒頭からその奇才振りを発揮する。

 

 

【第二段落】

 

      Mais qu'importe que le temps nous retire notre force peu à peu, s'il l'utilise obscurément pour des œuvres vastes en qui survit quelque chose de nous ? Il y a vingt-deux ans, c'est moi qui prononçait ici le discours d'usage. Je me souviens (et peut-être quelqu'un de mes collègues d'alors s'en souvient-il aussi) que j'avais choisi comme thème : les jugements humains. Je demandais à ceux qui m'écoutaient de juger les hommes avec bienveillance, c'est-à-dire avec équité, d'être attentifs, dans les consciences les plus médiocres, et les existences les plus dénuées, aux traits de lumière, aux fugitives étincelles de beauté morale par où se révèle la vocation de grandeur de la nature humaine. Je les priais d'interpréter avec indulgence le tâtonnant effort de l'humanité incertaine.

 

      とはいえ、時間というものは、われわれのもつ勇気を少しずつ奪い去ってゆく、そんなことはどうでもよろしいことでして、壮大な業績をなすには、知らず知らずの内に時間も勇気も必要とするとして、われわれの中のいったい誰に、そんなものが残っているというのでしょう。思えば二十二年前、この場所で、紋切り型の挨拶をしたのは私であります。私は、そして、恐らくは当時の同僚達の誰がしかもまた、覚えているわけでありますが、あのとき私は、テーマとして人間の分別を選びました。そして私は、聴衆に求めました、好意的に、つまりは公正に、人を評価することを、そして、自分の中にある良心をどんなに感じられないときであっても、どんなに倹しい暮らし向きになっても、崇高な精神の放つ一筋の光、そしてその煌きに、意識的になることを、なぜならば、そこから、人間の本性がもつ気高さの果たす使命は、明らかになるのです。そして私は、聴衆に朧気なる人間性なるものを広い心で模索し、また、解き明かしてほしいと求めました。(私訳)

 

 

 第二段落は、筆者(辯者)による過ぎ去りし日々の思い出語りである。この講演の遡ること二十二年前の秋、高等師範学校(École normale supérieure)を卒業した当時二十一歳の筆者(辯者)は、新任教師として、郷里カストル(Castres)に程近いこのアルビ高校に着任した。幼少の頃より、秀才と鳴らした筆者(辯者)ではあったが、高等師範学校を卒業した際の成績は三席(因みに、次席は、後に高名な哲学者となるアンリ・ベルグソン)だったという。今も昔も、高等師範学校卒業の肩書は、その後の人生において十分過ぎるほどに輝かしい経歴だが、いずれにせよ、当時二十一歳の未だ青年だった筆者(辯者)にとっては、ある種の失意を抱く中での着任だった。その着任の挨拶で、筆者(辯者)はどう、そして、何を述べたのか。前述のある種の失意を噯気にも出さず、滔々と聴衆に語り掛ける様は、二十二年前の講演内容を振り返る条りにおいて、直説法半過去形を用いる(第四、第五文)ことで示される。そして、その内容は、聴衆たる当時の生徒達に対する期待はもとより、ある種の失意の中に未だいたであろう筆者(辯者)自身に向けた言葉ではなかろうか。加えて、この言葉は、今、筆者(辯者)の相対する現在の生徒達にも向けられているだろう。過去にした、自身の言動を現在とは切り離し(直説法複合過去形)て述べるのではなく、直説法半過去形を用い、過去に視点を移しつつも現在語りの如く述べることで、二十二年前のあの日、口にしたことは、今尚、何一つ変わりはしない、筆者(辯者)の強い意志を感じ取れるだろう。