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【ソ連から日本を守り台湾も占領から守った英雄】根本博【ずんだもん ゆっくり解説】

 

 

 

 

根本 博

(ねもと ひろし、1891年(明治24年)6月6日 - 1966年(昭和41年)5月24日、中国名:林保源)は、日本の陸軍軍人及び中華民国の陸軍軍人。最終階級は共に陸軍中将。栄典は勲一等・功三級。陸士23期。陸大34期。終戦時に内モンゴル(当時は蒙古聯合自治政府)に駐屯していた駐蒙軍司令官として、終戦後もなお進攻を続けるソビエト軍と抗戦、その間に蒙古聯合自治政府内の張家口付近に滞在していた在留邦人4万人は脱出を果たした[1]。

復員後の1949年には、中華民国の統治下にあった台湾へ渡り、金門島における古寧頭戦役に参加、彼の献策が中共政府の中国人民解放軍の撃破に貢献したという[2]。中共政府は台湾奪取による統一を断念せざるを得なくなり、今日に至る台湾の存立が決定的となった。

 

 

・蔣 介石

(蒋 介石、しょう かいせき、チャン・チェシー、1887年10月31日〈光緒13年9月15日〉 - 1975年〈民国64年〉4月5日)は、中華民国の政治家、軍人。第3・5代国民政府主席、初代中華民国総統、中国国民党永久総裁。国民革命軍・中華民国国軍における最終階級は特級上将(大元帥に相当[2])。浙江省寧波府奉化県(現:寧波市奉化区)出身。日本や中華人民共和国では蔣介石の呼び名で知られているが、中華民国(台湾)では蔣中正(しょう ちゅうせい)の名称が一般的である。

孫文の後継者として北伐を完遂し、中華民国の統一を果たして同国の最高指導者となる。第二次世界大戦では同国を四大国の一角にさせ、連合国中国戦区最高統帥だった[3]。しかし、戦後の国共内戦で毛沢東率いる中国共産党に敗れて1949年に台湾へ移り、当地で1975年に死去するまで大陸支配を回復することなく、同国の元首たる中華民国総統の地位にあり続けた。

 

 

・古寧頭戦役

(こねいとうせんえき)は、1949年の国共内戦中に発生した台湾海峡の金門島を巡る戦闘である。金門戦役(きんもんせんえき)としても知られている[注 1]。

中国共産党は中国国民党に敗北し[4]、台湾を奪取し全土を統一する機会を逃した。

 

【米軍に占領を諦めさせた男】今村均

 

 

 

 

 

今村 均

(いまむら ひとし、1886年(明治19年)6月28日 - 1968年(昭和43年)10月4日)は、日本の陸軍軍人。陸士19期、陸大27期首席。最終階級は陸軍大将。

経歴
1886年(明治19年)6月28日、宮城県仙台区に父・今村虎尾と母・今村きよみの二男として生まれる[1]。今村家は仙台藩上士の家柄であった[1]。均の祖父は戊辰戦争の際に仙台藩参謀を務めたが、進駐してきた新政府軍に対して融和的な態度をとったため藩内の強行派から非難を浴び、財産を家来にほとんど分け与え、新政府からの官職への呼びかけにも応じることなく隠遁した。その後、妻を亡くすと名家から後妻を押しつけられるなどしたため酒に溺れる生活を送った。父の虎尾は先妻との間に生まれた。虎尾は幼少時に漢籍を叩き込まれるなど父から教育を受けた。生活が困窮していたため、裁判所の事務員として働きながら家事の出来ない継母に代わり弟妹達を育てた。そのような中、虎尾は裁判官試験に2番の成績で合格して裁判官として任官した。虎尾の妻である きよみ は陸軍将校の娘である。きよみの勧めで均や弟たちは陸軍将校となった。

新発田中学(甲府中学校から転入)を首席で卒業し、東京で受験勉強していた19歳の春、判事をしていた父の虎尾を亡くしたため、経済的に当初志望していた第一高等学校、もしくは高等商業学校に進学することが厳しくなる。母きよみは陸軍士官学校を推薦していたため今村本人は「一高進学か陸士入校か」と悩んでいたところ、母の薦める軍隊とはどの様なものかと思い、青山の陸軍練兵場で催されていた天覧閲兵式を拝観しに行った。その際、練兵場前で見た、観兵式を終えて帰る明治天皇の姿を見ようと天皇の乗る御料馬車に詰め寄る大勢の群衆の姿に何か熱く感激した今村は、自宅に帰るその足で郵便局に寄り、陸軍士官学校を受験する強い意志の旨の電報を母に打ち、郷里の連隊区で試験を受け合格した。この時の学科試験で今村と机が一緒になったのが本間雅晴であった。これが親友となるきっかけとなり、以降もイギリス駐在武官時や戦時に一層本間と親交を深める事となる。

1907年5月31日、陸軍士官学校19期を1053名中54番の成績で卒業し、見習士官となる。12月26日、陸軍歩兵少尉に任官、歩兵第4連隊附。

1915年12月11日、陸軍大学校27期を首席で卒業。恩賜の軍刀を賜った。同期生には本間雅晴(3番の成績)や東條英機(11番の成績)がいた。

 

 

 

日本占領時期のインドネシア

(にほんせんりょうじきのインドネシア、英語: Japanese-occupied Dutch East Indies)では、第二次世界大戦中の1942年(昭和17年)3月から1945年(昭和20年)9月の終戦にかけて大日本帝国が占領統治した「蘭印」と通称される当時のオランダ領東インド(現在のインドネシア)について説明する。この時期のインドネシアについては日本軍政下などの表記もある[1][2]。

植民地だったオランダ領東インド(以降、蘭印と略称)は、オランダにおける戦いで本国がナチス・ドイツに占領されたため日本軍に対抗する能力がほとんどなく、1942年(昭和17年)3月9日に降伏した[3][4]。日本政府の対インドネシア政策は、1941年(昭和16年)の御前会議で「治安回復、早期資源獲得、軍部隊の現地自活」が決定しており、インドネシアから資源と労働力を得ることが目的だった。中でも最も重要な資源は石油だった[5][6]。

当初のインドネシア人は、オランダの植民支配からの解放者として日本軍を歓迎し、日本は蘭印政府が禁止していた「インドネシア」という呼称を公の場で使用することを解禁した。しかしインドネシアの民族旗や、民族歌「インドネシア・ラヤ」は禁止された[7]。日本軍は、オランダ同様に結社や集会、政治に関する言論、行動および民族旗使用の禁止を布告し、インドネシア民衆の期待を裏切った[8]。また、厳しい規律の日本式の軍政や皇民化が施され、飢饉を招いた籾の強制供出、ロームシャと呼ばれる重労働を課せられた者もあり、インドネシア人の対日感情は変化していった[注釈 1][8]。

日本軍のインドネシア占領は、他の東南アジア地域と次のような点で異なっていた。

民族独立運動は蘭印政府によって弾圧されており、民族主義者の間では日本のアジア解放のスローガンが期待されていた。
組織的な反日活動をする指導層が存在せず、軍政が比較的安定していた。
連合軍による攻撃が、一部の地域をのぞいてほとんどなく、国土が戦場にならなかった。
独立を認めず、日本の降伏まで軍政が続いた[注釈 2]。
インドネシア独立の功労者は、スカルノをはじめとして対日協力をした人々だった。そのためインドネシア独立後に対日協力の是非は問われず、戦後の対日感情は他の元占領地と比べて良好だった[注釈 3][13]。
連合軍の主な部隊はインドネシアを迂回しており、そのため1945年(昭和20年)8月の日本降伏時にもインドネシアの大半が依然として日本軍の占領下にあった[14]。日本の降伏後、独立を宣言したインドネシア共和国と植民地奪還を目論むオランダとの間で戦争が始まった(インドネシア独立戦争)。インドネシアのたゆまぬ武力闘争と外交交渉の果てに、1949年12月、ついにオランダがインドネシアの主権を認めるに至った。国際連合の報告では、飢饉と強制労働によって日本軍占領下のインドネシアでは約400万人が死亡したとされる[15]。

 

【逆境を跳ね返して大国相手に勝利を掴んだ大英雄】上村彦之丞【ずんだもん ゆっくり解説】

 

 

上村 彦之丞

 

 

(かみむら ひこのじょう、1849年6月20日(嘉永2年5月1日) - 1916年(大正5年)8月8日)は日本の武士(薩摩藩士)、海軍軍人。鹿児島出身。海軍兵学校卒業。最終階級は海軍大将。従二位勲一等功一級男爵。渾名は「船乗り将軍」。

経歴
薩摩藩の漢学師範・上村藤一郎の長男として薩摩国鹿児島郡鹿児島城下平之町(現在の鹿児島県鹿児島市平之町)に生まれた[1]。鳥羽・伏見の戦い、会津戦争[2]に参戦した。海軍兵学寮に進んだが、在籍中に西郷隆盛が下野したことを受けて上村も鹿児島に帰った。しかし西郷の説諭により兵学寮に戻る。山本権兵衛、日高壮之丞らが行動を共にしている。在学中の成績は不良で後に海兵2期から4期となるべき生徒全員が受けた試験で最下位となった。雲揚艦乗組みとなって再教育を受けた後、少尉補試験に合格。4期生として卒業したが、席次はやはり最下位であった[3]。しかし将官となってからは、海軍教育本部長や、軍務局長を務めるなど、軍政面でも活躍した。また常備艦隊司令官として指揮した兵学校30期の遠洋航海は、日本が司令官を据えて行う練習艦隊のはじまりである[4]。


連合艦隊首脳部。左から舟越楫四郎、島村速雄、東郷平八郎、上村彦之丞、加藤友三郎、秋山真之
日清戦争では防護巡洋艦秋津洲の艦長として出征。第一遊撃隊に属し、豊島沖海戦では砲艦操江を降伏させた。これは日本海軍が敵軍艦を降伏させた最初の事例である[5]。続いて黄海海戦でも武勲を挙げた。日露戦争では第二艦隊司令長官として、蔚山沖海戦でウラジオストク艦隊を撃破。日本海海戦では判断よくバルチック艦隊の進路を塞ぎ、戦勝の重要な基因をなした。1907年(明治40年)に男爵を授爵。

戦後は横須賀鎮守府司令長官、第一艦隊司令長官を務め、海軍大将で退役となった。軍功から元帥となる可能性もあったが、実現していない。黒木為楨陸軍大将と同様に、剛直で荒々しい性格が評価されなかったともいわれている。ただし、元帥就任は大将として大きな功績を挙げたものという条件があり、日露戦争における上村の階級は中将であった。