【米軍に占領を諦めさせた男】今村均
今村 均
(いまむら ひとし、1886年(明治19年)6月28日 - 1968年(昭和43年)10月4日)は、日本の陸軍軍人。陸士19期、陸大27期首席。最終階級は陸軍大将。
経歴
1886年(明治19年)6月28日、宮城県仙台区に父・今村虎尾と母・今村きよみの二男として生まれる[1]。今村家は仙台藩上士の家柄であった[1]。均の祖父は戊辰戦争の際に仙台藩参謀を務めたが、進駐してきた新政府軍に対して融和的な態度をとったため藩内の強行派から非難を浴び、財産を家来にほとんど分け与え、新政府からの官職への呼びかけにも応じることなく隠遁した。その後、妻を亡くすと名家から後妻を押しつけられるなどしたため酒に溺れる生活を送った。父の虎尾は先妻との間に生まれた。虎尾は幼少時に漢籍を叩き込まれるなど父から教育を受けた。生活が困窮していたため、裁判所の事務員として働きながら家事の出来ない継母に代わり弟妹達を育てた。そのような中、虎尾は裁判官試験に2番の成績で合格して裁判官として任官した。虎尾の妻である きよみ は陸軍将校の娘である。きよみの勧めで均や弟たちは陸軍将校となった。
新発田中学(甲府中学校から転入)を首席で卒業し、東京で受験勉強していた19歳の春、判事をしていた父の虎尾を亡くしたため、経済的に当初志望していた第一高等学校、もしくは高等商業学校に進学することが厳しくなる。母きよみは陸軍士官学校を推薦していたため今村本人は「一高進学か陸士入校か」と悩んでいたところ、母の薦める軍隊とはどの様なものかと思い、青山の陸軍練兵場で催されていた天覧閲兵式を拝観しに行った。その際、練兵場前で見た、観兵式を終えて帰る明治天皇の姿を見ようと天皇の乗る御料馬車に詰め寄る大勢の群衆の姿に何か熱く感激した今村は、自宅に帰るその足で郵便局に寄り、陸軍士官学校を受験する強い意志の旨の電報を母に打ち、郷里の連隊区で試験を受け合格した。この時の学科試験で今村と机が一緒になったのが本間雅晴であった。これが親友となるきっかけとなり、以降もイギリス駐在武官時や戦時に一層本間と親交を深める事となる。
1907年5月31日、陸軍士官学校19期を1053名中54番の成績で卒業し、見習士官となる。12月26日、陸軍歩兵少尉に任官、歩兵第4連隊附。
1915年12月11日、陸軍大学校27期を首席で卒業。恩賜の軍刀を賜った。同期生には本間雅晴(3番の成績)や東條英機(11番の成績)がいた。
日本占領時期のインドネシア
(にほんせんりょうじきのインドネシア、英語: Japanese-occupied Dutch East Indies)では、第二次世界大戦中の1942年(昭和17年)3月から1945年(昭和20年)9月の終戦にかけて大日本帝国が占領統治した「蘭印」と通称される当時のオランダ領東インド(現在のインドネシア)について説明する。この時期のインドネシアについては日本軍政下などの表記もある[1][2]。
植民地だったオランダ領東インド(以降、蘭印と略称)は、オランダにおける戦いで本国がナチス・ドイツに占領されたため日本軍に対抗する能力がほとんどなく、1942年(昭和17年)3月9日に降伏した[3][4]。日本政府の対インドネシア政策は、1941年(昭和16年)の御前会議で「治安回復、早期資源獲得、軍部隊の現地自活」が決定しており、インドネシアから資源と労働力を得ることが目的だった。中でも最も重要な資源は石油だった[5][6]。
当初のインドネシア人は、オランダの植民支配からの解放者として日本軍を歓迎し、日本は蘭印政府が禁止していた「インドネシア」という呼称を公の場で使用することを解禁した。しかしインドネシアの民族旗や、民族歌「インドネシア・ラヤ」は禁止された[7]。日本軍は、オランダ同様に結社や集会、政治に関する言論、行動および民族旗使用の禁止を布告し、インドネシア民衆の期待を裏切った[8]。また、厳しい規律の日本式の軍政や皇民化が施され、飢饉を招いた籾の強制供出、ロームシャと呼ばれる重労働を課せられた者もあり、インドネシア人の対日感情は変化していった[注釈 1][8]。
日本軍のインドネシア占領は、他の東南アジア地域と次のような点で異なっていた。
民族独立運動は蘭印政府によって弾圧されており、民族主義者の間では日本のアジア解放のスローガンが期待されていた。
組織的な反日活動をする指導層が存在せず、軍政が比較的安定していた。
連合軍による攻撃が、一部の地域をのぞいてほとんどなく、国土が戦場にならなかった。
独立を認めず、日本の降伏まで軍政が続いた[注釈 2]。
インドネシア独立の功労者は、スカルノをはじめとして対日協力をした人々だった。そのためインドネシア独立後に対日協力の是非は問われず、戦後の対日感情は他の元占領地と比べて良好だった[注釈 3][13]。
連合軍の主な部隊はインドネシアを迂回しており、そのため1945年(昭和20年)8月の日本降伏時にもインドネシアの大半が依然として日本軍の占領下にあった[14]。日本の降伏後、独立を宣言したインドネシア共和国と植民地奪還を目論むオランダとの間で戦争が始まった(インドネシア独立戦争)。インドネシアのたゆまぬ武力闘争と外交交渉の果てに、1949年12月、ついにオランダがインドネシアの主権を認めるに至った。国際連合の報告では、飢饉と強制労働によって日本軍占領下のインドネシアでは約400万人が死亡したとされる[15]。