受け入れるということは


全てを与えられているということに


気づくことから始まる。



「全てを与えられている」というと


まだ、人によっては誤解がある。


ただただ、この肉体が自分だと思っている


この肉が、誰か頂いたものなのか。


そう思いを馳せる想像力は持ち合わせている


はすだ。



自分のものだと思っていたものは、


その始まりは与えられたものしかない。


その時点で受け入れるという以外ない。


ただ、自分が与えられたものによって


生きているということに思いを馳せた上で


受け入れるというのは、ただ単に受け入れようと


することとは、結果が異なる。



自分のことを自分のものだと思えば、


外側から与えられたものは、自分のものではない


という、二元の世界に入る。


その自分もまた与えられたものであれば、


極論、「与えられたもの」という意味において


同一である。


そして、感謝はその与えられたことへの反射であり、祈り。


与えられたものへの感謝しかない。


既に(先に)あるものへ、自らになっていただくことへの祈りしかない。


…


昨日は、妙な夢を見た。


この「全ては与えられている」という実感を


得て眠りについたその日の夢は。


子供の頃、小学生の頃の障害をもった


友人の母の愛について、感じる不思議なものだった。



よくあるわかりやすい具体的な行動を見


たわけではない


ただ、昔遊びに行って接した時の姿を思い出し


た瞬間に、そのエネルギーに触れたことを


思い出した。


その当時は気がつかなかったが、


今の私が感じ取ったという感じ



なぜか、涙がとまらなかった。


それほどに深いエネルギーに接していたことに


気がつくのに30年もかかった。