いい季節になった事だし、紅葉を観に行きたいなぁなんて思っていたところ、学生時代の友人達からお誘いが。


「王子の飛鳥山にいってみたいんだけど」とのこと。


昔駒込に住んでいた私にとっては、飛鳥山は六義園と並ぶ子供達を連れての散歩コース。


でも大抵が桜の頃から夏にかけてだったから、この時期には行ったことがなかった。


都内だから紅葉はしてないけれど、公園内にステンドグラスの展示しているところがあるので、それが観たいのだという。


私も興味があるから楽しみに訪れたのだが結果、残念な事にその日は団体の貸切になっていて、入館叶わず。

この時期にしか咲かないこの桜を観て、ここから徒歩15分位のところにある古河庭園へ行くことにした。


古河庭園は少し紅葉が。

道が一部石畳になっていて、風情がある。

水面に逆さ紅葉の姿。
晴天だったので、美しく映えている。

かやぶき屋根の門。
通り抜ける感覚も、愉しい。

昔住まいだった洋館は、今は美術館としても開放されている。

名物のバラ園。

手入れが行き届いていて、気持ちがいい。







何十種類もある中で私の一番のお気に入りは、この下の2種。

これは、少し紫がかっていて、気品がある。


たっぷり時間をかけて、庭園を堪能した。


この後、再び巣鴨まで歩き、とげ抜き地蔵様へ。


おばあちゃんの原宿と言われている所だが、私達ももう違和感のない年齢に近づいてきたねと、笑い合う。


「最近は一つのことに集中すると、周りが見えなくなったし、気力も衰えてきてる」と、友人の一人が言う。


確かにねぇと、もう一人の友人が同調。


出来ることが一つずつ減っていくのが老いると言う事だと、私は感じている。


大病を宣告された時の言いしれぬ不安や悲しみに似た感情なのかなと、ふと思う。


だからといって、そんなに悲壮感がある訳ではなく、彼女達に限らず同年代の友人達は、皆明るい。


皆、自分の愉しませ方を知っている。


「今度は泊まりがけで温泉行きたいね」


そんな話も出ていたから、またお呼びのかかるのを待つとしよう。


自然の美しさを満喫した秋の一日。


豊さはいつも身近な所にある。


「今、自分が何をしているのかを、一つ一つ確認しながら動いてみようか。例えば今、朝ごはんを食べているとか、病院へ行くために電車に乗っているとか。そうやって今ここに居る自分を、意識してみよう。」


これは5、6年前に、多重人格障害だった姪に私が言った言葉。


その頃の姪は、色んな人格が現れるため自分を見失い、どこで何をしているのかさえ、分からなくなっていた。


そして今私はこの言葉を、自分に向けて放っている。


日々の自分の行動は、つい無意識になりやすい。


無意識の行動をなくすには、意識を持った行動を増やしていくしかない。


今更のように気付き、ハッとする。


何を感じて、何のために動くのか。


食事や通勤の行程など、やることが当たり前になっていることは、特に無意識になりやすいから、敢えて意識を離さないようにし、身についたパターンを変えてみたりする。


その積み重ねで無意識を減らしていくしか、今は思いつかないから当分この方法で行こうと思う。


これも自分を知っていく為の行程の一つ。


結局はすべてこの人生の“目的”に繋がっていく。
今から13年前の夏の早朝、我が家の玄関ドアの前で鳴くか細い声。


開けてみると、ガリガリに痩せた狐のような顔をした白い猫がいて、何の抵抗もないかのように家の中に入ってきた。


それが現在家族として暮らしているタマとの出会いだった。


タマは家にいるときは二階にある私の部屋を拠点として過ごし、寝るときも私と一緒。


いつも門の前で私の帰りを待ち、部屋に入ると膝の上で寛ぐ。


それがタマと私の日常だった。


が二年前、私の隣の部屋に娘が移って来て、娘の愛猫ユニチャンの生んだ子供達が成長するにつれ、タマの足はだんだん私の部屋から遠のいていき、その後全く上がっては来なくなった。


娘の部屋と私の部屋は二間続きで、猫たちが自由に遊べるように仕切りの戸を開け放してあるため、自分以外の猫が同室に存在する事になる。


~子猫達に自分の居場所を奪われた!~


タマからしたらそんな気持ちだったのだと、思う。


夜中帰って来なかったり、帰って来ても大概は台所や浴室でポツンと座っている。


私が台所仕事をするときにはジッとそばにいて、作業が一段落するのを待ち、手が空くと抱っこをせがむ。


抱き上げるとゴロゴロ喉をならし、離れたくありませんというように、しがみついてくる。


何度か抱いたまま二階の私の部屋に連れて行ってみたが、牙をむいて怒りすぐに階下へ降りていってしまう。


それをした後は、私が近寄って頭を撫でるだけでも、「フーッ」と言って怒り出す。


そんな日々が1年半続いた。


そして今年の夏。


タマは急激に痩せ、顔付きも生気がなくなった。


心配になってヒーリングを受けたり、エッセンスを使ってみると、落ち着いた感じにはなる。


体調が悪いのではなく、精神的なもののように思えた。


ある日、何時ものように暗い浴室で、淋しそうに長い時間座っていたタマ。


(もう13才だし、この子にこんな思いをさせたまま逝かせる様なことになったら、私は一生悔やむ)


そう思った私は、タマがまた怒ることを承知の上で、再び私の部屋に連れて行く事にトライした。


階段を上る段階からもう、牙をむいて怒っている。


が、しかし部屋に入ると怒ってはいるけれど、今回は逃げようとはしなかった。


近寄って来る猫たちに威嚇はするけれど、私の膝からはおりない。


その日の夜は私の布団の上で眠りについて、家族皆を驚かせた。


そしてもっと驚いたのは、私と共に寝るようになった三日後、私が連れに行かなくても自分から階段を上って、部屋に来るようになった事。


日中私が居ないときでも、他の猫たちと共に部屋にいられるようにもなった。


決して仲良くはしないし、近寄って来ると相変わらず威嚇はしているけれど、喧嘩もしない。


適度な距離感を保っている。


あんなに同室を嫌がっていたタマにしたら、凄い勇気。


大きなブロックを壊したんだなと思う。


「タマのブロックが壊れたと言うことは、お母さんの何かのブロックが壊れたんだよね」と、娘。


自分の何が壊れたのかは自覚がないけれど、タマの姿が示すのはそういう事だ。


お天気のいい今日はタマも外遊び。


外に飽きたら階段を駆け上がって帰って来て、また私の膝を陣取るだろう。


足が痛くなっても我慢して、タマの気が済むまで抱っこしてあげよう。


甘えられずにいた時間を取り戻してあげることが、辛いときも苦しい時もずっとそばにいて支えてくれたタマへの、私に出来る恩返しなのだから。













自分を知って行く事が、今世生まれて来た目的の一つであることは分かっていた。


そしてその為に学びを深め、体験を積んで来たことも確か。


なのにここに来て、自分を知るとはどういう事なのかが分からなくなって、混乱の日々を送っている。


俗に言う短気だとか温厚だとかいう、性格的なことではなく、もっと深いところにある真の自分の質。


好きだと思っていることが、果たして真の部分でも好きだといえるのかどうか?


やりたいと思っていることは、本当にやりたいことなのか?


自分の中を探ってみても、相当深いところにあるらしくて、表面意識層の厚みに邪魔されて見えない状況。


どうしたら自分を知ることが出来るのかと、あれこれ思い悩んでいたら、今朝こんなメッセージが届けられた。


~~~動き
   そこからの反応で
   貴方という存在が
   見えてきます~~~


(動き?) 


ああ、そうか!


学びの中で何度も言われてきたことなのに、“知ること”に固執し過ぎていて、意識から外してしまっていた事に気付く。


どんな時に自分はどんな反応をするのか?


それは感じる事であったり、行動であったり、、、、。


それをつぶさに観ていけば、自分がどういう人間であるのかが分かって来る。


取り敢えず今回の事で、私は何か一つの事に引っかかると思考が固まり、学んできたことすら頭の中から除外してしまう傾向があることを、知った。


柔軟性の欠如。


普段から問題を問題として捉える意識が弱くて、訓練が出来てないのかなと、自分を分析する。


暫くは自分観察。


とことん自分と向きあって、知ることに重点を置こうと思う。
























私は昔から控えめで謙虚な女性に、憧れている。


自分の意見も能力もありながら自分を誇示せず、「私が私が」と出て行くこともしない。


人の噂話をせず、批判する事も勿論なく、でも相手の話はじっくり聞く。


そういった人に出会うと、どうしたらそんな素敵な女性になれるのかと、つい観察してしまう。


そして、そうなりたいと心がけてはみるものの、元々持ち合わせていない質なので、中々そうはなれなくて、結局憧れで終わってしまっている。


謙虚な人でありたい、謙虚な人でありたいと日々考えていて、ふと思った。


(本当の謙虚な生き方ってどういうものなのだろう?)


そして、、、、たどり着いた私なりの謙虚さ。


それは常に感謝を忘れないこと、それにつきるのではないか?


関わってくれる人、与えられたもの、廻りにある全て、そして起こる事柄にも。


これなら素晴らしい能力や知恵がなくても、出来るなと。


有り難いと思う心を育み続けて、私なりの謙虚さを身に付けて行きたいと思う。