眠れない~
から、続きをピコピコ
――浜登さんは自らも避難者となりながら、避難先で診断や治療にあたられたのですね。
浜登 妻子は無事でしたが、自宅も診療所も津波に流され、避難所が診療所代わりになりました。震災から三日間は、私たち診療所のスタッフで、できる限りの応急処置をすることにしました。
避難所で心がけたのは、職員の気持ちを一つにまとめることでした。ムダ話をせず、リーダーの指示に従って行動しよう、と呼びかけました。また、常にペアで動くようにしました。一人が冷静さを失っても、もう一人が落ち着いた判断ができるようにと考えたからです。
幸いにも、地震の翌日、ある薬局の薬剤師の先生とお会いし、薬と車を確保することができました。薬が手に入り、ある程度の治療が可能になりました。震災直後は、避難所には薬が届いていないため、常用薬を失った被災者の方が薬を求めて混乱する危険がありました。私は、医師であることがわかりにくいように、白衣の上にジャンパーを着用しました。避難所に来られた保険師の方が聞き取り調査をされ、診療が必要とされた方のもとへ行き、診療にあたりました。
震災から六日目以降は、各地から駆けつけてくださった医師や看護師さんに、避難所の診療をお願いすることにしました。私たちは、医療班から漏れた、小さな避難所や民家を回りました。
――浜登さんは、震災からほどなく、釜石市内で診療所を開設し、医療の分野でいち早く、力強い支援を始められました。
浜登 患者さんのほうから、「一刻も早く診療所を再開してほしい」という声が多く寄せられたのです。また、このころのニュースでは、瓦礫に埋もれた悲惨な光景や、将来の展望が開けそうもない不確実な情報が溢れていました。そうしたこともあり、何でもいいので、被災者の方が明るい希望を持てる、確かな話題を作りたかったのです。
幸い、三年前に閉院した市内の病院を借りることができました。職員三人と雑巾がけから準備を始め、震災から十日後に、新しい診療所で診療を再開することができました。診療器具もまだまだ不十分で、聴診器でさえ借りた物を使わせてもらっていますが。
――インフラ復旧が遅れ、医療環境が厳しい中で診療所を再開するのには、かなりの勇気を要したことと思いますが。
浜登 診療所を再開するのに、不安や迷いがなかったわけではありません。でも、一刻も早く診療所を再開したかったというのが、偽らざる気持ちでした。
この震災にあたって、大切なのは決断力だと考えています。このような非常時では、下した決断が正しいかどうかは、後から判断すればよいと思いました。自分が必要だと判断したので、すぐに行動に移しました。