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・追憶のローマ75 「ローマを去る」


車窓を流れさる、ローマのシークエンス!



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 飛行機はいったん西のティレニア海の青き海原に出ると、そこで大きく回転すると機体を大きく傾け、反転して、今度は一路北東の方向に飛び去る。アペニン山脈を横断し、あの美しき名称、アドリア海に別れを告げる。思い出と記憶と忘却の記念碑、ヴィッラ・アドリアーナ!幻の海の円形劇場、美しきアンティノウスのために。


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行く手を阻まれた、ハドリアヌスの海の円形劇場
ヴィッラ・アドリアーナ







・サンタ・マリア・マッジョーレ物語その8


 わたくしはかってアペニンの山中で、老いた主座巫女のような風格のギリシアの女神にあったことがあった。進化進行し転生する老い過程のなかで、いまなお崩壊が進む廃墟のなかの野晒の白き大理石の王座にひとり傅(かしづ)かれてある彼女は、年齢やよわい齢と云う時系列の、自然性としての概念を失っていた。生物種としての年齢だけでなく、時間による淘汰と云う練磨の過程で非本質的な諸要素の贅性と贅肉のことごとくが洗い落され、それはまるでイオニアの岸辺に打ち上げられた神寂びた白い流木の、繊維だけになってほつれた表面が露出して露になった、流謫の野ざらしの、流浪と放浪の、雄大な遍歴の物語と叙事詩の意匠のようでもあって、性差さへも超越し無性無調となり、人としての具体的な個性や固有性と云うものを風雪のなかで剥離し、脱落させていた、ヘルメス・アフロディーテのように!老いと若さと、高貴さと華やぎと、そして性差の相互反転へと、人生の諸段階の同時経験が重なり合った残像として共時的に現れていてわたくしを惑乱し混乱させる。つまり愛を静止した画像として捉えるのではなく流転の動態として捉えればこうなると云うことだ。プラトンの『饗宴』などに描かれた、叡智と知恵の象徴であるはずの彼女が、なにゆえにかアペニンの山中で方位を見失ってか、アドリア海はどちらの方向かと、艶を失った呟くようなか細き聲で尋ねてあるので、わたくしは息をひと時止めて、遠くイオニアの茫漠たる過去から潮風の渡ってくる方位をそれとなく示した。

 わたくしはちょうどそのころ政治的闘争の高揚と挫折後の縮退する日々を生きていた。個的実存としての意思はなお意気軒高でも、個人的な次元を超えた精神の普遍的次元では死の坂道を転げ落ちていた。個的な実存の様式を超えた普遍的的無意識の様式があると云うことだ。本人は死を意識することなく、それでいて死の感触に双曲線を描いて無限に接近する、そうした死の親和性のなかで、死者の構造を、死の実存的あり方を、心理学的にではなく、超越論的に理解する方位を与えられていた。つまり視線の水位が死の閾値よりも高いレベルにあるので、見る見ないの意思に関わらず死後の世界が顕わにみえてしまって、死の親しき接触と感触のなかに、生者でありながら裏切り者のように死の感化と感染力に馴染んでしまうのであった。夏草が生い茂る荒陵の玄室の奥に籠れる湿って微かに鼻を衝く甘い灰色の匂いのように、死は恐ろしいものなどではなく、あとで思い返すと怖ろしいことに、畏怖的感情のなかで凍れる音楽のように蠱惑的で、魅惑的ですらあった。ほのかに地肌が浮いた薄化粧に、一点、血痕のように鮮やかな朱を点じ、それが唯一荒涼とした風景の中で唯一の生きてあることの証で、ため息と吐息の間に間合いをとる、死の女神には恥じらいの感情があった。
 死の坂道、黄泉比良坂よもつひらさかを降りながら自らの影法師を踏んでみる、そうした日々や経験がなければ、死の女神と遭遇し、剣の鞘と鞘が無音の火花を散らす乾坤一擲の間合いで詰めた、静止して対峙するいとまもなく、すれ違いさま反転して双曲線を描くように生死を分かつ、無限の彼方に離別していったドラマもなかったに違いない。

  女神の、いわゆる女性美とはかけ離れた野性的とも云える腕の太さ、茫洋とした海原を見渡す、豊満でふくよかさ溢れる魅力をみていただきたい。性差を超越したとは言ったものの、これらの彫像では女性性が卓越している。現象論的視覚とその背後の超越論的構造は違うと云うことだ。

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 わたくしは、シルクロードの砂塵経て蒼き海原の波濤の彼方の、青丹よし奈良の都の咲く花の匂うが如き飛鳥で彼女ともう一度お会いすることがあるかもしれない。


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アテネ国立博物館





サンタ・マリア・マッジョーレ物語はしたをご覧ください。