「遅いわねえ、まだそんなとこ読んでるのー。みんなもうだいぶ進んでるわよ」
突然、美代子の声が後ろからした。回って、皆のスマホをチェックしていたのだ。
「う、うん」
それだけ言うと、慌てて次に進んだ。
《公威と祖母・夏子とは、学習院中等科に入学するまで同居し、公威の幼少期は夏子の絶対的な影響下に置かれていた[27]。》
《公威は物差しはたきを振り回すのが好きであったが没収され、車や鉄砲などの音の出る玩具も御法度となり、外での男の子らしい遊びも禁じられた[17][27]。夏子は孫の遊び相手におとなしい年上の女の子を選び、公威に女言葉を使わせた[27][28]。1930年(昭和5年)1月、5歳の公威は自家中毒に罹り、死の一歩手前までいく[15][17]。病弱な公威のため、夏子は食事やおやつを厳しく制限し、貴族趣味を含む過保護な教育をした[15][27]。》
《自家中毒や風邪で学校を休みがちで、4年生の時は肺門リンパ腺炎を患い、体がだるく姿勢が悪くなり教師によく叱られた[28][17]。》
リルケ保田與重郎の影響を受けた「花ざかりの森」は[69]、『文藝文化』昭和16年9月号から12月号に連載された[45]。第1回目の編集後記で蓮田善明は、「この年少の作者は、併し悠久な日本の歴史の請し子である。我々より歳は遙かに少いが、すでに、成熟したものの誕生である」と激賞した[70]。この賞讃の言葉は、公威の意識に大きな影響を与えた[3]。この9月、公威は随想「惟神之道(かんながらのみち)」をノートに記し、〈地上と高天原との懸橋〉となる惟神之道の根本理念の〈まことごゝろ〉を〈人間本然のものでありながら日本人に於て最も顕著〉であり、〈豊葦原之邦の創造の精神である〉と、神道への深い傾倒を寄せた[71]。》