「あなたたち、スマホ持っているわね。たとえば、三島由紀夫で検索して、ウィキペディアをクリックしてみて」
美代子が言うと、3人は一斉にスマホを取り出し、言うとうりに、やり始めた。私もやり出したが、皆さすがに早い。

さて、以下が三島由紀夫の項の抜粋である。
1925年(大正14年)1月14日東京市四谷区永住町2番地(現・東京都新宿区四谷4丁目22番)において、父・平岡梓(当時30歳)と母・倭文重(当時19歳)の間の長男として誕生[2]。体重は650(約2,400グラム)だった[15]。「公威」の名は祖父・定太郎による命名で、定太郎の恩人で同郷の土木工学者古市公威にあやかって付けられた[16][17]。》

《父・梓は、一高から東京帝国大学法学部を経て、高等文官試験に1番で合格したが、面接官に悪印象を持たれて大蔵省入りを拒絶され、農商務省(公威の誕生後まもなく同省の廃止にともない農林省に異動)に勤務していた[19]岸信介我妻栄三輪寿壮とは一高、帝大の同窓であった[20][21]

母・倭文重(しずえ)は、加賀藩藩主前田家に仕えていた儒学者・橋家の出身。父親(三島の外祖父)は東京開成中学校の5代目校長で、漢学者橋健三[17][22]。》