海軍は、サイレント・ネービーと呼ばれ、あまり発言しないのを美徳とされていました。政治性を出すことを嫌ったのです。

もちろん、退役して政治家になった人はいます。しかし、これらの政治家が海軍を利用しょうとか、海軍がこれらの政治家を利用しょうとかは考えなかった。

しかし、そんな中で、統帥権を持ち出して政治に口を出す軍人が、次第に現れます。その親玉が東郷平八郎です。そして、しきりに旗を振ったのは、末次
信正、加藤寛治といった海軍の有力幹部OBです。

彼らは、政治家となっていた加藤友三郎(日露戦争の連合艦隊参謀長)が政府で、ワシントン条約、ロンドン条約を結ぼうとする度に、内容が不利だとして妨害します。政友会も、これを党利党略に利用します。そして、彼らが考えて出したのが、統帥権干犯という考えです。

政友会では、犬養毅です。犬養はしきりに統帥権干犯を言って問題にします。5・15事件で、時の総理であった犬養は、海軍将校らに殺されますが、その時残した言葉が、「話せば分かる」です。きっと、我々は仲間だといいたかったのではないかと思います。

軍縮条約に反対なのが艦隊派、賛成なのが条約派と呼ばれています。結局、この時は条約派が勝ち、条約は締結されます。 

次の両者の対立は、独伊との三国同盟問題です。いったんは、米内(よない)光政海軍大臣が内閣の反対派として頑張り、山本五十六海軍次官、井上成美軍務局長が海軍を抑え、三国同盟を結ばすようとする陸軍の野望をくじきます。 

しかし、海軍条約派の頑張りもここまででした。艦隊派の海軍OBらの人事介入がいっそう激しくなり、条約派は駆逐されます。また、現役軍人らもドイツ留学組を中心に、陸軍との交流が盛んになり、陸軍の影響を受けて三国同盟を結ぼうという連中が多くなります。彼らの中心にいたのが、石川信吾、藤井茂らです。

彼らは、艦隊派長老や陸軍と連携し、海軍内に海事国防政策委員会を作らせ、実権を握る第一委員会に多く人材を送り込みます。第一委員会のメンバーだった柴勝男が「人事と金を握れば俺たちの天下だ」といったとおり、この組織が実質的に海軍を動かし、陸軍同様に反対派を軍から追い出したり、海軍省、軍令部から艦隊などの外に出す画策をして、残った日和見上層部を操り、日本は太平洋戦争に突き進むのです。 

東郷平八郎なんぞ、日露戦争の日本海海戦で、じっと外のデッキに立って回頭を示しただけ。愚直だけが取り得の男です。回頭のタイミングは、加藤友三郎が、長官、そろそろお願いしますとか言って促したのではないかと、私は疑っていますが、それが、海軍の神様に祭り上げられ、舞い上がってしまった。もっと自分を自覚すべきでした。