「だんな様、男谷先生がお見えです」

 「おう、来てくれたか。入ってくれ」

 言い終わらぬうちになつが襖をあけて、男谷精一郎が、入ってきた。

 「ご病気だと伺いましたが、いかがですか」

 男谷は、景元より五歳ほど年少である。

 「いや、たいしたことはない。嘘だからな」

 「仮病でござるか」

 「そうじゃ。今日は、嫌なことを聞いたので、奉行所から逃げ帰ってきたのじゃ」

 「なんと、お奉行がですか」

 「そうじゃ、怖くてたまらんわい」

 「いったいどうしました」

 そこで景元は、その日にあったことを、すべて男谷に話した。

 「なるほど」

 「だからな、今度は俺が罷免されるかもしれないのだ。しかも、矢部殿が評定で切腹かお取りつぶしということになれば、もう遠山家は終わりだということだ」

 「ほほう、それで蒲団をかぶっておられるのですか。ですが。奉行所にいた方が良かったのではないですか」

 「いや、ここだけの話だが、与力、同心の中に、腹の分からん奴が二、三いてのう。水野様の息がかっているやもしれん、いきなりずぶりとやられるのも癪だと思って、戻ってきたんじゃあ」

 「さようだったのですあ」

 「そうじゃ。殺されるのも、腹を切らさせるも、やられたことがないから、どんなに痛いか分らんしなあ、あははは」

 「それは私にもござらん」

 「冗談は兎も角として、実はな、奉行所にも、俺の下役に探るように言ってあるのだが、なんで矢部殿がこうなったのか、解せんのだよ。そこで、お前さんに探ってもらおうかとも思ったんだが、お前さんは狸穴の道場で忙しいだろう。今、だめだなあと気がついたんだ」

 「最近は、団野源之進どのの本所亀沢町の道場も任されており、少し忙しくなりました」

 「そうか、それでは無理だなあ」

 そう言うと、男谷は考え込んでしまった。

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