景元は、その日の朝から奉行所に出てからの出来事を反芻し始めた。


 <奉行所で机の前に座って書類に目を通し始めたら、筆頭与力の依田十衛門が部屋に入ってきて、

 「矢部様、お役御免との噂があります」と言った。

 「まさか」

と答えたところ

 「さきほど老中の堀田様より、内密の知らせがありました」

 と言っておった。それから、昼近くまで何も無く、飯にしようと言ったとき、老中筆頭の水野忠邦様からの使いが来て、正式の文書を置いて行った。この間、一刻ほどたっている。これはおかしい。多分、罷免は前日の老中の評定で決まったものだろうが、正式の文書がわしのところに来るまで、いかにも遅すぎる。そうこうしているうちに、矢部様の屋敷に行かせた依田が帰って来ていうのには、

「矢部様は、玄関まで出てこられ『申し訳ないが、罪人の扱いゆえ、あがってもらうわけにはいかない。近く評定所で詮議が始まると聞いている。遠山様には、十分注意怠りないようお気をつけられるように申し伝えてくだされ。今後私を処断する評定では、拙者への心配りはご無用。皆と歩調を合わせられるようにしてくだされと言ってくだされ。いいですか、頼みましたよ』と語っていました」

 と報告したのだった。

 それで俺は、急に不安になってきて、とにかく帰ろう、奉行所にいては危ないと思って、立った時に立ちくらみになったふりをして

 「気分が悪い。このところ調子が悪いので早びけする」といって、奉行所を出て、役宅を出て大急ぎで私邸にもどったのだが・・・。

 矢部様についての詮議が評定所で始まったら、弁護するつもりだったが、矢部様がああいうふうにおっしゃっているのなら、致し方ない、しかし、そんなものには出たくもないし、結局病気になろうというわけじゃ。


それにしても、どうもおかしいのは、このところの水野様のよそよそしさだ。矢部様も俺も、改革に反対したわけではない。しかし、民の安らぎを全部奪うのはどうか、物価が上がるのは、商人仲間の悪だくみだけではなく、もっと違うところに原因があるのではないかと言ってはきた。水野様は黙って聞いてくれていると思っていた。それを、なぜ、いまさら矢部様を切ることになったのか。やはり、われわれが改革の邪魔になったということなのか。それではなぜ、矢部様だけなのか。矢部様は俺より年長だからなのか。しかし、矢部様が、改革に抵抗していると見なされて罷免されたとなると、俺がやられるのも早晩ではないか。>

 そんなふうにあれやこれやと考えていると、なつの声がした。

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