年の瀬も押し迫った天保十二年十二月二十一日の昼過ぎ、遠山佐衛門尉景元は、馬を駆けて江戸・菊川の私邸に帰ってきた。門番の老人、弥吉に門を開閉させると、
「すまないが、本所亀沢町の男谷の家に行って、精一郎を呼んで来てくれねえか」
というや、馬を飛び降り、家人たち数人を集めた。
「誰が来ても、主人は重い病気だと言って、敷地の中には入れるな。ただし、剣術の男谷先生だけは別だ。中に入ってもらいな」
そう言い終わると、あっという間に、玄関に入り、さっさと家の中に入っていった。
「奥、奥」
と呼ぶと、数日前から役宅から私邸に戻っていた妻のなつが、息せききって、小部屋から飛び出してきた。
「まあ、いったいどうなさったのですか」
と、尋ねるなつ。役宅でもある奉行所から何の前触れもなく景元が帰るのは、これまで一度もなかった。
「わけは後で話す。布団を敷いてくれ。おれは今から病気になる」
そういうが早いか、さっさと腰の大小をはずして、裃に手をやり、着物も脱ぎ始めた。
女中の八重に布団を敷かせていたなつは、あわてて寝間着を用意して、景元に着せる。
「病気というのは本当なのですか」
なつが聞く。
「ああ、本当だ。だいぶ重い」
「それなら、お医者さまを呼びにやらさねば」
「いや、いい。お八重、もういいぞ。飯の支度をしてたんだろう。そっちをやってくれ」
景元は、まだ部屋にいた八重に声をかけ、部屋から遠ざかるのを見計らって、なつにそっと耳打ちした。
「矢部殿がきょう罷免になった。近く、お取り調べがあるそうじゃ」
「矢部様とは、南町奉行の矢部様ですか」
「そうじゃ」
「いったいどうして」
「俺にもさっぱり分らん。しかも、ご老中方の詮議が始まるとのうわさだ。いったい何が起こっているのか」
そういうと、景元は、布団を被ってしまった。