沖川の秘書が出た。

 「冨田だが」

 雄一郎は少し上ずった声で言った。

 「あっ、はい」

 「沖川君はいるかね」

 「おります」

 「今すぐ私の部屋に来てもらいたいのだが」

 「えっ、今から出るところですが、緊急ですか」

 「うん」

 「分かりました。伝えます」

 雄一郎はこれまで、他の役員に対しては、相手の用事を優先させてきた。緊急だと言って、呼びつけることはほとんどなかった。ましてや、会長職にあるものを、出る時間間際に呼び出すことはなかった。

 電話が入った。沖川の秘書からだ。

 「これからそちらに伺います」

 雄一郎は、聞こえるか聞こえないかの声で、ハイと言って受話器を置いた。

 まもなくして、ドアが開いた。

 「名誉CEO、どうなさいました」

 大きな声で、沖川が入って来た。

 「やあ」

 雄一郎は、そのころには、多少落ちついてきた。にこりと笑う余裕さえ見せた。しかし、はらわたは煮えたぎっていた。


 「沖川さん、ちょっと伺いたいことがあるんだが」

 「なんでしょうか」

 「うん、ちょっと長田君に聞いたのだが、彼を社長からはずすつもりかね」

 「あっ、その件ですか。もう少したってからご相談をしようと思っていたのですが、お聞きになりましたか」

 「うん」

 「実は私もそろそろ財界活動から身を引こうと考えておりまして」

 「次に任期は日本経営者団体連盟の会長は続けないというのか。他企業の中には、この際もう1期やってくれという人が多いと聞いているが」

 「いやあ、3期もやるというのは前例がありませんし、もう疲れました」

 「ふむ」

 「それで、トミタの会長も辞めさせていただこうかと思っています」

 「そうか。しかし、トミタの会長まで辞めなくてもいいのではないか」

 「いや、もう若い人にバトンタッチすべきです。それで、後を長田君に選ぼうと考えています。もちろん、名誉CEOのお許しを得られれば、ですが」

 「君の希望が強ければ、考えてみよう」

 「それで、長田君の後任には誰を考えているのだね」

 <保男というのか。もし言われたら、どう応えるか>

 一瞬、雄一郎に、息子の顔が浮かんだ。

 「若井君を考えています」

 「若井専務かね」

 「そうです。彼は、ほとんどすべての担当をやってきましたから。平社員のころは、経理から総務までやっています。秘書室にもおりましたし」

 「そうだったなあ」

 彼は、秀二や雄一郎の秘書はやっておらず、副会長の秘書だったが、雄一郎も知っている。ちょっと小粒だが、仕事は有能だった。ほかに、適任はいないようの思われた。やはり、保男には少し早すぎると思った。

 「分かった。それでいいと思う」

 そう言って、雄一郎は、海外進出が性急すぎるのではないかと話の矛先を変えようと思った。しかし、沖川の方が先に口を開いた。

 「それから、保男さんを専務にして、アジア太平洋の生産と販売をやってきただこうかと思います」

 雄一郎は、そう切り出されて、海外進出が性急だということは言いだせなくなってしまった。

 「保男にできるかね」

 「大丈夫です。できますとも。これから、上海、瀋陽、広州など、工場建設が控えております。保男さんなら、きっと中国市場を大きくしてくれると思います。中国は、わが社は遅れていましたから」

 「そうかね。まあ、よいようにしてくれたまえ」

と、雄一郎は言ってしまった。