自分のマンションに帰った綾子は、その夜、一睡もせずに雄介の思いを考えていた。人生50半ばで死ぬなんて思いもよらなかったのではないか。しかも、その数年前に妻も亡くしている。なんで夫婦ともども、子ども2人と生まれたばかりの孫を残してその若さで死ななければならなかったのかという思いはあったはずだ。

 だが、死を前にして、雄介は落ちついていた。あの落ち着きようはなんなのだろうか。人は死を前に、あんなに落ち着きはらったようにふるまえるのか。

 なんど考えても分からなかった。だが、いずれ自分が死ぬときは、あのように死にたいと思った。それには、何が必要かーなんでもいい、人に認められようと認められなくとも、なんでもいいから、自分のやりたいことをやることではないか、あるいは自分としては「これだけはやった」と自分に言うことではないか。それは、世間に言えることでなくてもいい。たとえば自分は、子どもを立派に育てた、自分はこういう仕事をしたーそれは人にいえるようなことでなくてもいい。自分自身に納得がいけばそれでいいんだ、と考えたりした。

 そう思うと、これまでの自分は、ただなんとなく生きてきたような気もした。幸い、東京のレストランは当ったが、このところ毎日行っているわけではない。どこか、ぬくぬくと暮らしているようだと感じた。

 そう思うといてもたってもいられなくなった。電話の受話器を回し始めた。もう明け方だった。フランスでは、夜に入ってしばらくしたころだ。

 「アロー」

 元夫のジャックの懐かしい声が聞こえてきた。どうやら、ここしばらくはパリの店に戻って来ているらしかった。

 「私」

 「アヤコか、どうしたんだい」

 「1週間以内にオーストラリアに発つわ」

 「おう、オーストラリアの店の件、引き受けてくれるかね」

 「そう、いいわ。でも条件があるの」

 「なんだい」

 「私のいうところに店を出すこと」

 「ウィ。君の眼を信じているよ」

 「それから、5年でそれなりの収益をあげたら、私自身の店を京都に出したいと言ったわね」

 「うん、聞いてるよ。それもOKだ」

 「京都かどうか分からないわ。ほかにいいところがあれば、そこに出したいの。京都とは限らないわ

 「わかった。それでいいよ。ただし、それなりの収益をあげたらだ。分かっているか?」

 「もちろんよ」

 「それでいい。じゃあ、向こうについて銀行口座を開いたらすぐに連絡してくれ

 「わかったわよ」

 そんな会話をして、電話を切った。

 それから2-3日して、綾子は健三にメールを書いた。健三には、別れた直後、郵便ポストに雄介の死亡通知を出しておいた。もう、それを読んだはずだ。しかし、自分が出したとは言うつもりはなかった。

 健三宛のメールには、こう書いた。

 「健三様 この間は、大変楽しい一時を過ごすことができました。私も18歳の時に若返った気分になりました。あれから1人で文学部まで行きました。門は閉まっておりましたが、真っ暗な中を眺めていても、明るく陽光を浴びた昔の私と仲間たちが飛び出してくるような錯覚を覚えました。

 青春時代は終わりましたが、私はそれではいけないんだと思い始めています。もう恋などできる年齢ではありませんが、人はいつまでも何らかの挑戦をしなければならないと思っています。私は、あと数日で日本を去ります。行き先はフランスではありません。夫とはすでに別れました。これからは、私の新しい挑戦を始めようと思っています。健三さんも、どうか頑張って、なんでもいいですから挑戦してください。また、縁があれが10年後に会いましょう。

 雄介さんのこと、知りました。残念です。しかし、私の胸にはしっかりと彼のことが胸に残っています。お互いに、雄介さんに負けないように頑張りましょう。さようなら」

 メールを送り終えると、綾子は、プロバイダーに電話して、ただちに契約を打ち切った。それから、オーストラリアへの旅行の準備を始めた。


 健三は、家の帰って、メールの着信を開けてみると、綾子からメールが届いていた。前日に、雄介の死亡通知を受け取ったばかりだった。ショックで何もいえず、会社を休んだ。

 「なんで何もいわず死んでしまったんだ」

そういう気持ちでいっぱいだった。死亡通知には、前もって雄介が子どもたちに頼んでおいた健三あての手紙が同封されていた。そこには

 「ごめん。先に行くよ。元気でな」

とだけ書かれていた。おそらく、痛みをこらえたか、モルヒネでもうろうろした頭で書いたのだろう。雄介にしては乱れた文字だった。なんで言ってくれなかったのかという思いを引きずって会社に出て、帰ってきたら綾子からのメールだ。慌てて、受信をクリックしたら、もうすぐ日本を発つという内容だ。大急ぎで返信を書いたが、何度も弾き飛ばされてしまった。

 「ああ、1回姿を表したきりでまた去ってしまうのか」

と思ったが、もう一度よく読んでみると、彼女のメールから、自分を励ましてくれているような内容だと気がついた。

 「分かったよ、綾ちゃん、何をしていいか分からないが何かに挑戦してみる。それを探すよ」

 そう素直な気持ちになってきた。

 「また10年先に会えると信じているよ」

と、心の中で呟いた。


 その翌日、綾子は、成田へのタクシーに乗っていた。空港について手続きを済ませて、さっさとカンタス航空機に乗り込んだ。機は、出発時刻になると、ビルを離れ、それから間もなく離陸した。みるみる地上の景色が遠くなっていく。それを見て思った。

 <さようならニッポン。5年は帰ってこないわよ。またね>

 飛行機は、どんどん日本を離れて行った。