雄介の手紙は、このように続いた。

 「びっくりしたかな。死者からの手紙になっているはずだからね。


  実は、君とヨーロッパを旅行をする前に、ちょっと思いついて、手紙を書こうと思ったんだ。もちろん、君の手に渡るのは、僕が死んだ後にしたいと思った。照れくさいからね。


 その手紙をどこに置こうか、いろいろ考えた。自分の家でもいいけど。、子供たちが、僕の死んだあと、すぐ片づけをするとは思えない。よく分かるとところの置いておいてもいいが、たとえば僕が入院して、次女がたまに京都から帰ってくれば、僕が死ぬ前に見つけられてしまう。それで、どうしよかと思っていたら、ふと健三のことが頭に浮かんだんだ。


 君は、健三はもちろん、サークルの誰とも連絡をとるつもりではないようだ。だから都合がよかったかもしれない。僕が、健三に君への本を託して、その本の間にでも手紙を挟んでおこうーそう思ったんだ。あいつは、決して、人の包みを開けようとはいないからね。


 健三に頼むのは、ちょっと気が引けた。健三の君に対する思いは知っていたから。でも、彼には永年連れ添った奥さんがいるし、僕は今は独身だしね。それに、あれだけ学生時代に、君とのことでいろいろ相談にのったのだし、まあ、最後は僕の思い通りにさせてくれてもいいだろうと思ったんだ。


 それで、ヨーロッパを旅行中に、君に健三に会うように頼むつもりだ。いや、この手紙を読んでいる頃には、すでに過去の話になっているだろうから過去形で言うよ。君に健三に会うように頼んだんだよ、と。


 僕は、実は学生時代から、君のことが好きだった。それは、君はまったく感じていなかったと思う。絶対に表に出さなかったから。


 君のどこがすきだったのだろうか。自分なりに分析してみた。でも、自分でも本当のところは分からないんだ。とりあえずの分析は、君は確かに可愛くて、美人だけど、それだけではない。というか、僕は、自分は顔や形だけで女性を好きになるようなことはしないと心に決めていたから、それで好きになったら、自分の主義に反することになるーと、ここは突っ張りたい。


 やはり、君の思いやりのあるところで、どんな困難があっても向かって行こうとする強い信念、それに安易に回りに流されずに自分で何でも考えてやってみるところーそういう優しくて強いところに惹かれていた。


 君は、2年生の時にフランスに行き、僕らの前から姿を消してしまったが、後でそれを知って、いかにも君らしい情熱で、「行ってしまったんだ」と思ったよ。僕は、ひょっとして、君さえ受け入れてくれれば、君が卒業して、健三も君のことを未練なくあきらめているのだったら、付き合ってもらおうかなと思うこともあったけど、君は大学に戻ってもサークルは辞めたままだし、父から君の実家に連絡先を聞いてもらってもよかったんだけど、僕も仕事が忙しく、それにそういう勇気もななくて、君のことは遠い過去のこととして、ただ思い出として残しておくことにした。


 最近、人間の思いなんて、年月がたてばたつほど薄くなっていくものだと感じていたけど、それだけ君に対する思いはなにか透明感を持った美しいものになっていたように感じる。

 

 今年に入って、銀座でばったりと出会ったときは、本当にびっくりした。妻を亡くして、さらに癌の宣告を受けて余命半年、もって1年だと言われた直後だったから、運命的なものを感じた。僕は無神論者だけど、これは神様が、最後に僕に与えてくれた最高の喜びだと思ったよ。妻には申し訳ないけど、僕の人生だから、致し方ない。

 

 イタリアで、あるいはイギリスで、僕らの関係はどうなっているか分からない。どうなったんだろうねえ。でも、僕は、学生時代より正直な気持ちになっていると思うよ。


 綾ちゃん、ありがとう。僕は、取り立ててたいした人生を送ってないけど、最後に君に会えて、本当に良かった。有終の美を飾ることができた。幸せだった。


 あとは、君のことだけど、君は君の信じる道を進んでいけばいい。今は、いろいろ迷っているようだけど充電期間だ。これからは、仕事にも、趣味にも、恋愛にも、君のことだから全力で取り組んでいくだろう。そうあってほしいと願っているよ。

 

 僕ら夫婦は、早く死ぬことになってしまったが、たいていは70-80まで生きるののが普通だ。あと10-20年もすれば、ひょっとしたら平均余命は100歳だって可能かもしれない。そう考えれば、今は青春時代だ。第二の青春時代を、楽しんでください。 


 じゃあ、さようなら。

 僕が愛した綾子へ もういちどAdieu!」



 綾子は、手でそっと涙をぬぐった。それから、バッグからハンカチを取り出し、また流れてきた滴を拭き取った。

 何度も読みかえし、ハンカチで目のあたりを拭く動作を繰り返した。


 しばらく心を落ち好かせて、喫茶店を出た。駅はまだ、喧騒の渦中にあった。大勢の人が歩き、しゃべっていた。階段を上るとさらに電車のけたたましい音が聞こえたはずだ。しかし、綾子には何も聞こえないように思えた。ただ、雄介の手紙の文字だけを、頭の中で反芻していた。