大学本部に沿った道を行くと、まもなく上り坂になる。昼間なら、喫茶店、食堂、レストランが道を連らねている様子が分かるが、もう9時を過ぎており、どこもすでに店じまいをしていた。街灯だけが、薄ぼんやりと街路に灯りをともしていた。

 「ここを歩くの、久しぶりかな」

 健三は、自分のこととも、綾子のことともつかぬように言った。

 「私は、大学卒業以来です」

 「そんなに来なかったの」

 「ええ。杉田さんは?」

 「数年前に、雄介と待ち合わせをして、さっきあったレストランに来たのが最後かなあ。それまでにも数回あるよ」

 「そうなんですか。このへんも多少変わりましたね」

 「そうだね。サークルのたまり場だった学生会館もなくなってしまったしね。まあ、サークルそのものも無くなってしまったらしい」

 「本当なんですか」

 「ああ、影も形もないよ。もう20年ほど前に、会員も少なくなって、つぶれてしまったそうだよ」

 「そうだったのですか」

 健三は、多少気になっていたことを聞こうとしていた。

 「ねえ、雄介と銀座で偶然会ったそうだけど、それから会ってないの。まあ、会ってたら、僕に君に贈る本を託すことはないとは思ったけど」

 「ええ、あれっきりです。住所や電話番号、それにメールアドレスも聞いてなかったので、連絡の取りようがありません」

 「そうなの。不思議だなあ。僕のメールアドレスだけ教えて、自分のは教えないとは」

 「昔から、あの人は、自分のことより人のことをまず考えていたんじゃないですか」

 「違いないなあ。それで、僕は、あいつに悪いことをしたなあと思っているんだ」

 「なんですか」

 「僕が君のことを好きだと彼に言ってしまったばっかりに、彼も君のことが好きだったんだけど、それが言えなくなってしまったんじゃないかと。それに、君は雄介のことが好きだったんじゃなかったかと」

 「・・・」

 「今思うと、ほんの青春の一瞬だったけど、なんか2人の人生を別々にしてしまったんじゃないかと」

 「杉田さん、そんなに気にすることはないと思いますよ。私、運命なんて信じたくないんですけど、まあそれを運命というなら、受け入れるべきだと思います。でも、結局、それは運命ではなくて、自分が選んだ道だと思うんですよ」

 「そうだなあ。雄介は、いい奥さんが持てたわけだしね。彼女は本当にできた奥さんで、亡くなった時は雄介は本当にがっくりしていたんだよ」

 「そうだったのですか」

 「それに、君は君でフランス人のご主人ができたわけだし。まあ、僕も、過ぎた女房が持つことができたわけだし。いや、ちょっとのろけてしまったかな。ごめん、ははは

 <この人は、雄介さんが亡くなったことを、まだ知らないんだわ。もちろん、私が離婚していることも>

 坂の頂上近くになってきた。小道は、大きな通りと交差する。その先に、綾子が学んだ文学部があった。

 30年ほど前に、皆、この当りを歩いたものだ。皆人生に対する洋々たる人生の可能性は誰もが持っていた。しかし、将来に対する不安もまた大きかった。どれくらいの人が、自分の思った通りに生きることができたろうかーと綾子は考えていた。

 <私は、思い通りには生きられなかった。いや、自分は思い通りに生きられなかったけど、まだ生物としては生きている。しかし、生きることができず、途中で亡くなった人も多いはずだ。雄介は50歳を過ぎて亡くなったが、どんな思いだったのだろう。>

 そんなことを思うと、涙があふれ出そうな気持になった。

 

 「もうすぐだね」

 健三が声をかけてきた。 

 「えっ」

 「いや、地下鉄の駅が・・・」

 「そうですね。あの、私、ちょっと1人でこのあたりを歩きたいのですがー」

 「ああ、そうだね。君が学んだ文学部はすぐそこだ。また、メールするから・・・。君が東京にいるときは、また会いたいものだ」

 「そうですね」

 「じゃあ」

 そう言って、健三は右手を差し出した。綾子も右手を出して、2人は握手した。健三は、その手をしばらく離さなかった。

 しばらくして、2人の手が離れた。

 「またね」

 「はい」

 綾子は小さく応えた。健三は行きかけて、後ろを振り返った。綾子は、それを見て、優しく微笑んだ。満足そうに健三も笑い、踵を返してだんだんとその背中が遠ざかって行った。

 綾子は、信号が変わると、道路を横断して、文学部の方に進んで行った。