仲居が去ると、長尾が有希に声をかけた。

 「少し食べませんか」

 有希は食欲がなかったが、そう言われて

 「はい」

 と自然に返事が出た。


 しばらく無言で食べている。食欲のなかった有希も、料理を口に入れるたびに、美味しい感覚が広がって行く。タケノコや、アユの甘露煮が特に気に行った。心持ちに多少、落ち着きが出てきた。


 「あなたには、本当に申し訳なく思っています」

 長尾が語ることに、有希は返事をしない。

 「ただ、これからしばらくは、なんとかよろしくお願いしますとしかいう言葉がありません」

 「・・・」

 「これまでまったくばれなかったのは、秘密にしていただいたあなたのお気持ちが強かったのでしょう。社員一同感謝申し上げます。しかし、今後は、どんなことで漏れるかもしれません。東京には、写真週刊誌やらいろいろありますから、そうでない関係もそぅした関係になってしまいます。あなたの沖川に対するお気持ちは、十二分に分かっておりますが、ないとぞ分かっていただけませんか」

 長尾の話を聞いていて、有希は、もうどうでもいいかという気持ちが多少は湧いてきた。相手がそれほど重要な地位に就くのだったら、いやこれまでも重要な地位ではあったが、日本の財界総理にまで上り詰めるのなら、自分が身を退くのも女の道かもしれないと思って来た。


 「分かりました。一度、まっさらになりましょう。その後、沖川さんがまたいらしてくれるのならそれもいいし、もういいというのなら構いません」

 有希は物分かりがいい方だった。最初は急な話で、本人でない人からの話だったので落ち着きをなくしたが、結局は、それが沖川のためになると思ったら、あっさりと理解した。

 

 「ほ、本当に分かっていただけましたか」

 「はい、分かりました。それから、これまでのことは口外しませんので、ご安心ください」

 「ありがとうございます。それで、これは、沖川からのこれまでの感謝の気持ちですが」

 長尾は、自分の後ろに置いてあった大きなバッグを、テーブルのわきから、有希の方に差し出した。それから、大きな封筒を、バッグの上に置いた。

 「これはなんですの」

 「いえ」

 「お金ですか」

 「ええ、まあ」

 「・・・」

 有希は黙った。

 <口封じということか。沖川は私をそんな女と思っていたのか>

 腹が立ってきた。

 「これは受け取れません。私も絹通りに何年もいる女です。その都度、沖川さんにはお世話になりましたが、人のほっぺたを札束で張るようなそんな失礼なことをされては怒りますよ」

 穏やかだが、そう言い切った。

 <この女、なかなかいい根性しているなあ。さすが沖川さんが惚れるだけのことはある。これなら、大丈夫だろう、他言することはあるまい>

 長尾は、直観でそう感じた。

 「いや、そういうつもりではありません。沖川の誠意をくんでいただきたいのです。もし、有希さんが、そう感じているのだったら、いずれ沖川があなたの元に帰っていくかもしれないし、その時まで預かっていると思っていただいて結構です。そのようにするしないは、あなたの自由です。沖川があなたの元に帰った行った時に、絹通りの女の心意気をありがたく感じると思います」

 「えっ」

 有希は、多少驚いた。これまで、沖川が帰って来るかもしれないということを長尾はにおわしていたが、その可能性が高いような言い方だ。

 「いいですか、これからも沖川はあなたの店に行くかもしれないが、男女の関係はなしです。しかし、財界総理の立ち場から解放されれば、我々は何も心配はしていません。沖川とあなたとのことです。どうぞお二人でご自由にしてください」

 「それでは、数年間でいいのですね」

 「お二人がよりを戻そうが戻さないが、お二人のご自由です。ですから、今日は、黙ってこのバッグを持ってお帰りください。それにタクシーを呼んでいるので、封筒は御車代です」

 長尾は、自分の預金を下ろした数百万円の現金の入った大きな封筒を指し示した。

 「お車代にしては厚みがありますね」

 「いえ、ご心配なく。多少かさばるものが入っています」

 長尾に言われて、有希は、沖川の最後のプレゼントのネックレスかなにかが箱ごと入っているものと勝手に解釈した。

 それから、しばらくして、有希は出て行った。長尾はタクシーまで送って行き、運転手に、有希のマンションの位置を告げた。運転手は、住所をGPSに入力した。長尾は、バッグと封筒を有希のそばに置いて、ドアが閉まると、車が見えなくなるまで、頭を下げていた。


 部屋の戻ると、長尾は、自分の食べ物と有希の残り物をせっせと食べ始めた。単に話すためにこの料理屋を使ったと店の者に思われるのは嫌だった。ここの食事がおいしいから食べに来たと思わせたかった。

 食べ終わると、日本酒を持った来させて、ちびりちびりとやり始めた。あまり早く帰ると妻に怪しまれる。妻思いの長尾としては、変な誤解をさせたくなかったし、さりとて妻にさえ本当のことを言えなかった。



 自分のマンションに着いた有希は、まず、タクシー代を払おうとして封筒の中を見て、びっくりした。慌てて、自分の財布からタクシー代を払った。それから、重いバッグは、運転手が部屋まで持ってくれた。1人になって開けてみて、仰天してしまった。