やがて、長尾は視線をゆっくりと有希に移して、じっと見詰めた。それが有希にはだいぶ長い時間のように感じられた。有希が何か言おうとした時に、長尾は両手をついて、深くお辞儀をした。それもしばらくの間、ただ黙ったままだった。また、有希が、

<どうしたのですか>

 と言おうとした時に、ふいに長尾が、

 「申し訳ない。本当に申し訳ないが、しばらく、沖川さんとは、互いに連絡を取らないでもらいたい」

と言った。

 こうした時がくるのは、有希も予想はしていたが、沖川本人から話があるものと思っていた。

 「いったいどうしたというのですか」

有希は、気を落ち着かせて、長尾に尋ねた。長尾は正直に答えた。沖川が、財界総理という地位に昇りつめようとしていること、これまで二人の関係がばれなかったのが不思議だが、そのような僥倖に頼ってばかりもいられないこと、ここはすっぱりと沖川との関係をあきらめてほしい、その上で、沖川がその地位を降りて、まだ有希に未練があるのなら、また戻ってくることもあろうーそれを短い時間で説明した。

 有希はしばらく黙っていた。その間、長尾は頭を下げたままだ。有希がどう返事をしたものか、一生懸命考えていると、長尾が、そばに置いたバッグを、有希のほうにすべらせた。

 「なんですの、これ」

有希が尋ねると、

 「黙って受け取ってくれませんか」

とだけ長尾が言った。

 「えっ」

 有希は驚いた。まさか、カネまで、沖川以外の者が、前もって何の話もなく、いきなり持たせてくるとは思わなかったのだ。

 「長尾さん、見損なってもらってはこまります」

 有希は、怒りが湧いてきた。

 「あなたがどこのどなたか知りませんが、沖川さんが直接私に話してくれるなら、どんなによかったことか。それもできないなんて、私もとんだ男に惚れたものですね」

 「いや、それは違う」

と、長尾は言ったが、有希は聞く耳を持たなかった。確かに、有希のいう通りだろう。しかし、長尾も子どもの使いではない。ここは、なんとしても、穏便にすまさなければならない。

 「ちょっと、私の話をきいてください」

と、有希を制しようとした。しかし、怒り狂った有希は聞く耳をもたない。

 「私は、そんなつもりで沖川さんと付き合ったのではありません。男と女の関係とはいえ、お互いに深く理解しあっていると思っていました。それをカネを払って終わりにしたい、それも直接言うのではなくて、同じ会社の役員に言わすとは何なんですか。私は、おカネなんかどうでもいいのです。沖川さんに、直接私と話をしにくるように言ってください」

 きつい口調で言い放った。 

<困った>

長尾は、困惑してしまった。もともと、男女のことにはまったく経験のない長尾は、こういう展開になるとは予想もしていなかった。仕方がないので、なんとかこの事態を打開したいと思いながらも、いい考えが出るよう思案しているが、なかなか出てこない。仕方なく、黙ったままである。だいぶ時間が流れたようだった。その時、ふすまの外で声がした。

 「お客さん、そろそろ、コース料理をいかがですか」

 その声を聞いて、長尾はほっとした。顔を上げて、

 「おう、頼むよ」

 そういうと、仲居が2人、料理を運んできた。長尾が頼んでおいたように、ほとんどすべて、一度に出てきたのだった。