ジャックは、それまでとはまったく違った感じだった。かつては、ぎこちなくキスをするだけだった。というか、綾子のリードをそのまま受け入れていた。しかし、この日は、自分から、優しく、ソフトだが、自分が主導権を握ろうとしていた。

 <あれ、どうしたのかしら>

 しだいに、頭が真っ白になって行く。

 <だめだ、だめだわ、いけない>

と、一生懸命考えようとするのだが、しだいに、陶酔していく自分を感じた。

 ジャックの手が、そっと、背中に回されるのを感じる。柔かに、ジャックの右手が、背中を往復している。その手が返って、手の甲が、うなじをそっと、触るか触らないかのように、上下している。

 ジャックの口が、耳たぶの這い上がってきた。やがて、背中の後ろで、ワンピースのホックが外された。しだいに、息が上がって行くのが分かる。綾子は、もう何も言えなかった。ただ、黙って目をつぶっていた。

 そのうちに、ワンピースがすっかり脱がされているのが分かった。そして、突如、体が宙を浮き、移動していた。そっと、ベッドの上に、体が置かれた。ブラジャーと下着が剥ぎとられていくが、乱暴でなく、そっと、そっと、という感じで、まるで、丁寧に、リンゴが皮をむかれるかのようだった。

 ジャックの唇が、綾子の体を這い始めた。体の底から、歓喜が湧き起こるのが感じられた。遠い世界にやってきた感じだ。紅葉の山々が、あるいは桜の木々が、沢を下る清流が浮かんでは消えていく。耳の奥では、ゆったりとした音楽がかすかに聞こえていた。



 終わった後、綾子は、しばらく立ち上がることができなかった。心地よい脱力感が、体に漂っていた。まだ、陶酔している。

 

 右側には、ジャックが、自分を見ているのが感じられた。そっと、寄りそいそうになるのを、ようやく押しとどめた。


 <いけない>

そう思った。


 「大丈夫ですか」

ジャックが優しく聞いてくる。

 綾子は、返事もせずに、目をぱっちりと開けると、急いでバスルームに駆け込んだ。そして、急いでシャワーを浴びて、すべて洗い流した。妊娠する気づかいのない日であるのを、改めて頭の中で確認した。

 バスルームを出ると、服を着たジャックが、テーブルわきの椅子に座っていた。

 「ジャック、帰ってくれる?」

 「えっ、どうしてですか」

 「私、1人で考えたいことがあるの」

 「でも、さっきは幸せそうな感じ」でしたよ、と言おうとしたが、綾子が遮った。

 「あなたとの今後のことは、ゆっくり考えてみるわ。でも、今はそうした気分になれないの」

 「本当ですか、本当に、いっしょになることを考えてくれるのですね」

 「一緒になるかどうかは分からないわ。それも選択肢の1つとして考えてみると言ってるの」

 「分かりました。いつまでも待ってます。あなたが、私のもとにやってくるのを信じます」

 「分かったわ。私は、これから急いでやらなければならないことがあるの。あなたが、その予定を台無しにしたのよ。お願いだから、帰ってくれる?」

 「了解しました。ジュテーム」

ジャックは、キスをしてきた。綾子はそれをにっこりと受け止めた。ジャックを騙すしかないと考えたのだ。

 綾子は、そこで始めてジャックに尋ねた。

 「ねえ、どうして私の住所と電話番号がわかったの」

 「ある日、ご主人が、厨房に手帳を忘れたのです。それを1人のときに見つけて、そっと見てしまいました。そうしたら、あなたの住所と電話番号が書いてありました」

 「そういうことだったのね」

 そう言って、また、思い切って聞いてみた。

 「あなた、今日は、以前とだいぶ違ったわね。誰かと練習でもしていたの」

 こういうことを聞けるのも、ジャックよりも10歳も年上なのと、夫の使用人だという立場からだ。

 ジャックは、真っ赤になった。30を過ぎているが、やはりうぶなところは変わっていない。まるで少年のようだ。

 「焼いているのですか。大丈夫です、そんな女はいません。本を、本を読みました」

そう言って、慌てて出て行こうとする。

 <えっ、本?ハウトゥーもの?なんてことなの>

 本で勉強するとは、賞を取ったシェフもかたなしねーそう綾子は思って、ジャックをドアまで送って行った。

 「あなた、このままいくと、とんだドンファンになるわよ」

 「えっ」

 「いいの、行って」

 綾子は、微笑んでジャックを送り出した。

 ドアを閉めると、再び綾子は、厳しい顔に戻った。これで、もう夫とは、もとに戻ることはできない、もとの鞘に戻ろうとはほとんど考えていなかったが、数パーセントの可能性はないでもなかった。しかし、それもありえなくなった。かといって、シェフのジャックと一緒になるつもりもない。

 綾子は、電話の受話器を取ると、ボタンを押して行った。