綾子は、シェフのジャックとは、家のすぐ近くのカフェで会った。目抜き通りだと、知り合いの日本人の誰かに見られるのを恐れたのだ。かといって、ジャックの家の近くというのもはばかれた。夫のジャックと会ったカフェで会うという気持ちにはなれなかった。ともかく、自宅近くのほかに適当なカフェを思い浮かばなかった。

 会うとジャックは、イタリアに行くと、あまり帰ってこれなくなる、その前に一目あなたに会いたかったと言った。

 「私のことはもう忘れて」

と、綾子は強い口調で言った。

 「えっ、どうしてですか。あんなに愛し合ったのに」

ジャックは、驚いた。綾子の心変わりが解せないようだった。夫と別居したのも、自分との関係で、綾子がジャックと一緒になる気持ちになったと期待したようだった。しばらく連絡がないのは、夫との関係を清算させる冷却期間だとくらいに考えていた。

 「ごめんなさい。あれは、私の気の迷いだったの。だからもう忘れて。あなたには申し訳ないことをしたと思ってるわ」

 「そんなばかな。あなたは遊びだったというのですか」

 「遊びなんかじゃないわ。でも、愛でもなかったのよ」

 「では、なんだったのですか」

 「言いたくないわ。ともかく、あの時、私は混乱していたの。本当にごめんなさい」

 綾子が答えていると、突然ジャックは下を向いて、何も言わなくなった。それからしばらくして、ジャックの膝に、涙がぽつりぽつりと落ちるのが見えた。

 そういえば、ベッドの中でジャックは、うぶな感じだった。料理一筋にこれまでの人生を打ちこんできたのだろう。それが、ふとしたことで、経営者の妻とベッドをともnすることになった。断ろうと思ったかもしれない。しかし、それもできなかった。あとは、深い快楽の底に落ちて行き、そこから覚醒したら、今度は深い後悔の海が待っていた。しかし、後悔に買った快楽の海の遊ぶようになってしまった。ただ、そうしているうちに、快楽もやがて綾子への愛へと変わって行ったのだ。

 ジャックは、綾子を尊敬していた。しとやかに見えて、時に思い切った決断を夫に迫るのを、何度も見てきた。そんな綾子が、ジャックに時折見せるかわいらしいそぶりに、いとおしく思うことがたびたびあった。肉体の結合は、やがてジャックの綾子に対する愛情に変わり、綾子が夫と別れたら、結婚したいと思うようになっていったのだ。

 綾子は、泣いているジャックが可哀想になってきた。そっと彼に近づき、隣の椅子を綾子の方に引き寄せた。そこに座ると、両手で彼の頭を抱き、自分の胸に埋めさせた。