「ここのシェフはねえ、ボキューズ・ドールで優勝したの。それで、ジャックが、私の元夫が、おんなじ名前だということもあって、スカウトしたの」
と綾子が、シェフの説明をする。
「ボキューズ・ドールって」
と雄介。
「リヨンで2年に1回開かれているフランス料理のコンテスト。1987年に始まったのよ。5、6年前の大会で優勝したの」
「ほう、そいつは楽しみだ。で、シェフもジャックというんだ」
「そう」
「英米風の名前だね」
「そうね。でも、ジャック・ブレルっていうシャンソン歌手がいるわよ。彼はベルギー生まれだけど、フランス語圏の人よ」
「ああ、いたねえ。僕らが生まれた時代だよ。『そよ風のバラード』なんてヒット曲があったねえ」
「そうねえ。いまでもフランスでは、たまに聞くわよ」
「ホント?聞きたいなあ」
「確かCDがあったと思うから、日本に帰ったら聞かせるわ」
「ありがとう。ところで」
と言ってから、雄介は聞こうか聞くまいか、逡巡した。しばらく沈黙する。
「ねえ、何よ」
と綾子が尋ねる。
「いや、いいや」
「何よ、言いなさいよ」
「いいんだ。忘れてくれ」
「嫌。言いよどむなんて、男らしくないわよ」
いたずっらぽく綾子が迫る。
「ううん。君が気を悪くするといけないから」
「いいわよ、何を聞いても」
「そう、本当に」
「ええ」
少し深呼吸して、雄介が言った。
「君が真実の口に手を入れなかったのはなぜかなあ、と思った。答えなくてもいいよ」
しばらく綾子は考えているふうだったが、決然として言った。
「いいわよ。全部話すわ」
綾子は、そうきっぱりとした口調で言うのだった。