映画が始まった。けだるそうな、頽廃的なテーマ音楽が聞こえてくる。初めから官能をそそるようなムードの映画である。健三は、いっしょに入ったことを後悔し始めていた。

 <ほんとうに、入ってよかったんだろうか。自分が変に思われないか>

 そう思う一方で、

 <いや、芸術的な映画という評価もあったじゃないか。芸術かどうか、みてやろうとして選んだんだ>

 と、本音を糊塗するもっともないいぐさも、心の底から上がってくる。こんな声も聞こえる。

 <入りましょうかと相手がさそったようなもんじゃないか。この女は結構遊んでいるぞ。どうってことないじゃないか>

 さすがに、この声には、即座に否定するもう一人の自分がいた。

 <いや、彼女はそんな女じゃない>

 そう言って、さらなる悪徳の考えを避けたのだった。

 映画は、どんどん進んでいく。きわどい場面に来るたびに、ひやひやする。

 <綾ちゃんはどう思っているのだろうか>

 時折、横顔をのぞこうかと思うが、首が回りきらない。とても綾子の横顔を見れるような勇気はない。

 一方、綾子の方も、この映画を見たことを後悔し始めていた。映画はとても芸術的とは思えない。女性同士のからみになると、芸術というよりは変態である。健三に入ろうかという素振りがあったので、気を利かせたつもりだったが、これほどまでの映画とは想像もつかなかった。ついに、綾子は、決心した。

 「私、出ます」

 そう言って、小走りに出口に向かった。健三も、早く映画館から逃げ出したいと思っていたので、後を追った。この映画を見ている連中は

 <無理に連れてきた女性に逃げられた間抜けな男だな>

 と思っているかもしれないと、出口近くにきて、ふとそんなことが頭をよぎった。

 出口のカーテンのところで、綾子に追いついた。まだ、暗闇の中である。カーテンに入った綾子が扉を開けた。綾子が出るのに続いて、健三も出た。そこは、売店の前だった。売店の女性が、一瞬二人を見た。それをやりすごした。知ら間に健三は、右手で綾子の左に腕をつかんでいた。健三は、前に立って、ぐいぐいと映画館の外に出て行った。腕をつかんだのは、まったく無意識だった。映画館から10メートル離れ、綾子の腕をつかんでいることに気がつき、慌てて手を離した。

 「ごめん」

 健三はそれだけ言った。

 綾子は、何もしゃべらない。健三も黙った。そのまま二人は、新宿駅の方に歩いて行く。右手に紀伊国屋が見えてきた。そのあたりに、軽食屋があった。

 「入ろう」

 そう言って、健三は、綾子を促した。綾子は、うなずいたかのように見えた。

 ドアを開けると、綾子はついてきた。

 二人は席に座った。そこで、初めて、健三は、綾子に尋ねた。

 「なんにする?」

綾子はしばらく黙っている。健三は、

 「僕はスパゲッティーとコーヒーにしようかな」

 と言った。綾子は小さな声で

 「コーヒーにします」

 と返した。

 「何も食べないの。ちょっと早いけど夕食にしない?」

  「いえ、結構です」

 「ケーキくらい頼んだら」

 「・・・」

 「食べられなかったら、僕がもらうから」

 「じゃあ、ショートケーキでも」

 健三が、やってきたウェートレスに注文をした。

 そこで二人は、また黙ってしまった。健三は、右手に、さっき握った綾子の腕のやわらかい感触がまだ残っているように感じるのだった。