四月のインドで

足の裏が大地を掴み

腹が座る体験をしたあと

自分はまだ

抜け切れてない何かを

温存したままだということに

とっくに気づいてた

それは

表層には現れず

ささいなことでモヤるから

ひとり内面で

浮き沈みを繰り返す


けれど

表層の一部は確実に

変わっていて

こんな風に誰に憚ることなく

自分の想いを吐き出したり

全く新しい友人と出会ったり

(初めて会うのに既に友人)


インドに行く前の自分とは

明らかに別の世界を

生きている


私はまだ

やりたいことがある

なんなら

それを体験したいがために

生まれてきたようなものだ


体を使って感じる

知りたい

それがどういうものなのか

結局今までに経験した

無我夢中で必死だったことって

そのための

必要な経験だったのだと


すべては必要だから

起きている

要らないものなんかない


リシケシュの小さなお寺で

お参りと瞑想をした時に

降ってきた言葉


それの何が問題なの?

それのどこが問題なの?

何も問題ない

どこにも問題ない


問題はすべてわたしが作っている

わたしの内側にすべてがある