なんと!!


前の記事が1,500本目だったそうです!!

全然書いてないつもりだったけど
腱鞘炎にもならず、よく書いたな(笑)


そんなわけで前回申した通り
今年2022年の振り返りをしていこうと思いますっ

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今年大きかったことの1つは祖父との別れです🌈

ここ暫く、祖父の体調が不安定で入退院も繰り返していて
「コロナ禍だけど、小さいうちに会わせたい」という姉の意向もあり
2021年の正月、自宅療養中だったので
曾孫(ラブリィ甥っ子💙)と会わせることもできて
これはホント、後に心から「良かったね」な案件で

2021年11月…

叔父(母の弟)から祖父が「緩和ケアに入った」との連絡を受け、このときも自宅療養中という状態でした。

「緩和ケア」…祖父との時間が限られていることを意味していることは素人のあたしでも理解できました。
あとから聞いたけど、肺ガンでした。

田舎暮らしで、通院もゆるくなくて
「体も思うように動かせない中、定期的に通院して、辛い治療を続けるのはイヤだ」みたいな考えもあったようです。

そんなことになり
いわゆるコロナ禍の最中で
祖父母の家はあたしのところから、高速を使っても車で4〜5時間はかかる遠方にあります。
だから「もし自分が無症状なだけでウイルスに感染している状態だったとしたら…」
そう考えると、とても足が向きませんでした。

でも、ちょうどその頃は段々と一日の感染者数が減ってきていた頃で、道内の1日の新規感染者が3人とかまで減った日もあったと記憶しています。
そして前年とは違ってワクチンも打っていました。

それに、祖父の元気な姿を見られる最後のチャンスになるかもしれなかったから

年末年始に帰省することを決めました。


坂の上にある地元の神社


降りたら登るのがまた大変なんだけど
オホーツク海と空の青さがとてもキレイ…


祖父は、良い物を持っていたい。着ていたい。そんな人で
70歳、80歳を越えても白髪を黒く染めるような
そんな人で
そんな祖父の髪の毛が真っ白なままでいたのが
現状のすべてを物語っているように思えて
あってすぐ、なんて言っていいのか分からなかったし

最後になるかもと思うと
普段は撮らない写真とかスマホでツーショ撮っておこうかという気持ちにもなったけど
しませんでした。

だって、そんな白髪姿の写真残されるの
祖父は嫌だろうし…って

でも
撮っておくんだったなって
今もずっと思ってます。

家の中を歩くにも杖をついて

帰る時に玄関までお見送りしてくれました。

なんて言葉をその時、言うべきだったのか
「元気でね」なのか「長生きしてね」なのか
「またね」があるのかもわからない。

ただただ、杖に乗せた祖父のシワシワな手に触れて
孫の顔を見て微笑む祖父と目を合わせるので精一杯で

「これが最後じゃない」って信じることしかできなかったんだけど


結果、それが祖父との最後になりました。


お正月が終わる頃には
コロナの感染者数がまたリバウンド状態になってしまって
迎えた2月某日

スマホをみたら祖母からの着信があって
なんとなく嫌な予感がして折り返したら
祖父が危ない。今日〜明後日が峠だと……

それと、その時が来ても無理して来なくていいと。
変に集まって感染者が出たときに
「誰からもらったんだ」「誰にうつされた」だなったらいやだし、姉のとこにはまだ小さい甥っ子もいるし
祖母と叔父と親戚1〜2人の少人数でどうにかするからと。


直ぐ様、姉とライン会議
「電報とお花を送ろう」という話に落ち着き

病気で実家に居ない母にも、事後報告や突然の訃報を伝えるよりは現状報告をしようと言うことになって
半休をもらって母に(リモートで)会いに行って

私「大丈夫?話したらお母さん泣いちゃうんじゃないかと思ってた。」
母「1人になったら泣いちゃう…」

コロナ禍なことが本当に憎かった。
直接伝えたかったし、母の肩を抱くこともできないし
一緒に鼻をかむことも許されない。

もどかしかった。

ソーシャルワーカーさんには「メンタル面のサポート」なんて難しいことを頼むことしかできなくて
ホントもどかしい。

そして3日が過ぎても祖母からの連絡はなくてソワソワしていました。

「連絡がないということは祖父が今日も無事だった証拠。
祖母からの連絡を待つだなんてまるで……」
とか考えてしまうくらい落ち着かなくて

いつ連絡が来てもいいように身構える毎日

一月が経ってやっと精神的に落ち着いて
「きっと大丈夫だったんだ」と
呑気なことを考えるほどになっていた。

でも「じいちゃんどう?」って
祖母に電話の一本をかける勇気もなかった。
入院してしまっては、祖母も安易に会いには行けなくなっていたから祖母も答えようがなかったろうし…

そして
祖母から最初の電話が来てから二ヶ月後の日曜日

なんの前触れもなく祖母からの着信…

心臓がドクンと鳴った。


「じいちゃん死んだわ」


「そっか…」
そう返すしか言葉が見付からなかった。

呆気ない。
信憑性にかけるというか…

でも
祖父はきっと、すごく辛かった。
ガンであることを知らされることもなく
身体の痛みを麻薬で抑えて

娘とも
孫とも
息子とも
70年近く寄り添った妻とも

最期、思うように会うことはできなかった。

病院で知らない人(医師や看護師さん達)しか居ない
そんな中で旅立ったのかと思うと
心底コロナが憎かったし
後悔した。

こうなる前にもっと会いに行ったり
今までしてもらってきたことや「好きだよ」な気持を
何かしらの形でもたと返すことは出来なかったのかなとか

耳が遠くて会話が面倒くさいと感じることもあって
でも、もっと優しくしてあげるんだったとか

年末年始に会った時にやっぱり写真撮っておくんだったとか
美味しいものもっと食べさせたかったなとか

お母さんと会わせてあげたかった。
きっとお母さんを病気にさせたのはあたしで、あたしが悪いからこうなったんだとか

どうしようも出来なかったことや
要らないことまで
色々考えてしまった。


祖父が亡くなったことで忌引をもらうも
祖母から「来るんでない」って言われてしまって

\休みだーいえーい/状態…
でも、特別なにかするようなこともなくて
喪に伏せるってこういうことかな?って感じで
初日は花や電報の発送で姉とLINE会議して
それ以外は静かに過ごした

気がする。

あとは
GWに叔父の車で帰省する予定だったけど
祖父の葬儀で叔父が先に帰省することとなってしまったから
初七日の日にJRを乗り継いで、近く(と、言っても車で2時間…くらい?)の駅まで迎えに来て貰うことになって
時間や料金調べたり

普通に地元にいるだけだったし、急なお休みをもらうこととなったから職場へ地元のお菓子屋さんで買物したり…

そして
このときはなによりも
母への報告が一番辛かった。

平日しか会いに行けないので翌日になってからの報告になってしまったけれど
単刀直入に「昨日、ばあちゃんから電話があって…」と
母に報告しながら
年末年始に会いに行ったことを振り返って
祖父の死を実感した。
泣き出す母からもらい泣きしたのか
自発的に泣けてきたのかわからない…

「親の死に目に会えない」
親不孝って言われることの1つだけど仕方がないことだし
母の病気だって
なりたくて患ったものでは決してないわけで

母は学生時代、祖父と親子喧嘩というか
言い争いというか…凄かったらしくて
(祖母も含めて)孫への甘々な対応に、あっけらかんとしてしまったらしい。

祖父は会社で上に立つ立場の人で、地元のタクシーに乗れば「●●さんとこの娘さんかい!?」とか声を掛けられてしまうような感じで
そんな地元での就職はしたくないと、札幌へ移り住む道を選んだ。

そんな祖父に何もできないことを含めての涙だったんだと思う。


じゃあ、あたしの涙は?


あたしは2歳のときに父方の祖父が亡くなってから
一度も身内の不幸がなくて
だからかもしれないけど
イマイチ人の「死」がピンとこないというか

誰かが亡くなって泣くってことが
もう会えなくなることの寂しさで泣くのか
死んでしまったことじたいが悲しいのか
わからなかった。

自分の身になって
「答えなんかない」ってわかった。

そして

「お姉ちゃんとお花送ろうって話てて、どれがいいかな?」と
スマホでお花屋さんのサイトを開いて
姉と候補に上げていたお花を3つくらい見せて

母が「これがいい!!」と一番声を張って言ったものに決めて
母の名前も連名にして発送手配をしました。


すぐ送るのはバタバタしていて大変だろうし
「香典も何もいらないから」と言われていたので
初七日に届くようにしました。

あと、これはあたしの勝手な解釈なんだけど
祖父が亡くなった翌日
うちで7〜8年生きている金魚を3匹飼っていて
その内の1匹が死んだの。

じいちゃん、一人で旅立つには寂しくて連れてっちゃったのかなぁ?って……

あと、お盆に帰省して帰ったらもう1匹……
お盆に帰ってきて、また一人でアッチへ戻るの寂しくて連れてったかと(笑)

父親に言ったら「バカ」って言われたんだけど
あたしはそうだと思ってる。

だってしょうがないじゃん。
じいちゃんはばあちゃんがいないとダメで
自分の家なのにコップ1つどこから出せばいいのかわからないような人で
一週間遠方の病院に入院するってなったら
近場でばあちゃんをホテル泊させて毎日見舞いにこさせるような
そんなじいちゃん…だったから

ばあちゃんじゃなくて、金魚を連れて行くなら
可愛い方といったら、金魚の命を蔑ろにしてるみたいに聞こえるかもだけど

ずっと一人じゃあ
やっぱり可哀想じゃん。


祖父はもうこの世にはいない。

祖父のことを想う度
祖父の遺影を見る度
涙が込み上げてくる。


祖父が生きられなかった翌日
4月で
気温はそこそこなのに、夏みたいに陽射しが痛かったことが忘れられない。