君の名前で僕を呼んで、2018年に主題歌mystery of loveでアカデミー音楽賞をとり、いまは大スターティモシーシャラメのその名を世界にとどろかせたと言っても過言ではない淡い物語だ。同性愛を扱った映画でも、多様性やマイノリティーをテーマにした映画ではないのが本作の魅力だ。啓発映画ではなく一人の少年の苦さと爽やかさを含んだ青春の物語だと私は言いたい。中学2年生の時に何の気なしにこの映画に出会った私は衝撃に落ちた。近所の蔦屋書店で原作小説を購入した。ある時学習塾にこの小説を置き忘れ、戻ると職員に「これはあれかい?男の人たちの恋愛の話かい?」と聞かれ、その時はなんとなく受け取ったがその時に感じた違和感ははっきりと覚えている。
この映画を見た時、夏、田舎のイタリアの美しさたるや、目を奪われた。世界で私だけのように感じていた孤独感、人知れないどんよりとした思考、ふと自分の居場所が分からなくなる感覚、日常にある倦怠感、そのすべてを受け入れてくれたこの作品は一生涯の出会いであった。原作小説を読み、サントラCDを聞き、英語の小説までに手を出した。
私のような底辺ライターのブログなんぞやわざわざお読いただくためにこの記事を開いた読者の皆様型であるとすれば、そもそもこの映画をすでに見て、私と同じようにその魅力のとりことなってしまった人たちであろうと想像にたやすい。であるからにしてこの話はここまでにし、実際に北イタリアのどこかでエリオとオリヴァーと同じ風に吹かれてきた身としてこの記事から皆様にその爽やかな体験を裾分けする。
ご存じのようにわたくしは今チェコ、プラハに留学している身であり、イタリアまでは飛行機で向かった。旅を共にしたのはイタリア、ボローニャで留学中の友人である。彼女も私と同じく本映画を幾度にもわたって視聴した筋金入りのファンであり、旅の行き先、再開の場所がベルガモに決定するのは至極当たり前のことであった。実際電話を始めてから行き先を決め、ホテルや航空券をとるのに1時間も要しなかったことからもわかるだろう。
プラハからベルガモまでは直行便がある、というのもベルガモはミラノに近く、大都市ミラノに行きたいが格安航空券を取った者たちはミラノの空港ではなく、ベルガモに降ろされ、そこから電車で向かうという、あまりベルガモを目的地として向かう人はいない不遇な空港なのである。
そのためプラハの空港で一度イベントであったイタリア人の女の子と遭遇したが、名前を覚えておらず、また覚えられている自身もなかったので声をかけなかったが、まんまと同じ飛行機であった。
空港に着き、友人が到着する予定のベルガモ駅で待った。その日はもう夕方だったためご飯を食べてからホテルに向かうことにした。
食後、バスも終わる時間になり、最寄りのバス停がベルガモ城のあちら側となり仕方なく女二人で城の中を練り歩く。山の上に建てられた城のためひたすら砂利道を下る。ときたま車は通るものの人の気配は全くなく、ずっと薄暗い。ホテルを予約する際はベルガモ城の中心地側を予約することを強くお勧めする、さもないとバスが終わった時間に永遠と万里の長城のような見た目の道を歩くことになる。ちなみにこの白菜に見える私が抱えているものはペットボトルを商店の袋で巻いたものである。
私たちが宿泊したのはキッチン付きの広々とした、母屋に隣接した部屋であった。また冗談かというほどシーツがうるさかった。
母屋にはオーナーが住んでおり、朝方4時ごろから活動する方だった。しかしそれを苦に感じることはなかった。なぜかというと朝3時から永遠に鳴き続けるニワトリが近所のどこかにいたからである。私と友人は初日は我慢できたものの2日目から〆て食べる計画をしていた。また門の鍵が本当に建付けが悪く、毎回数分格闘が必須であった。
ベルガモという町はエリオとオリヴァーが最後に二人で旅行に来た町である。二人が愛し合い、また別の日には山に登り、そして最後には駅で別れるあの町である。しかし!ベルガモに私たち観光客が入場可能な聖地はほとんどなく、君の名前で僕を呼んでの聖地として町を挙げて集客しているのはクレマという町であった。そのため翌日私たちは電車に揺られ、クレマに向かった。
ベルガモでさえアジア人がほとんどいなかったというのに、クレマへの往路や現地では本当にアジア人がいなかった。有名な聖地化した壁や、エリオが待ち伏せする本屋、教会や細道でたっぷりと写真を撮影した。教会では映画と同じカットを見つけて興奮しながらが核を合わせていたのだが、目の前の路上でアコーディオン奏者のお兄さんが演奏しており、自分を撮影しているのだろうと思い何種類もポーズを取ってくれていたのが申し訳ない。ちっとも映ってないのである。
有名な壁では一眼レフをぶら下げたおばさんが写真を撮ってくれると申し出てくれたのだが、あまり上手とは言えない出来であとで二人で苦笑いをした。見た目で技術は図れないと思った。
また本作と言えば二人が自転車で街を走るシーンが印象的である、からにして自転車レンタルをしようとしたのだが、当初秘密の場所の湖とエリオの家を巡るつもりだったのだがどちらも自転車屋を中心にして正反対、またどちらも往復2時間の距離と説明された。どちらかを選ばなくてはいけなくなった私たちは湖を選択した。その時午後3時半ごろであったが自転車屋が閉まるのが6時だと言われかなりギリギリであった。デポジットとして現金1万円か身分証を置いていくよう言われ、1万円を預けた。そこで用意された自転車がこちら、ダサすぎる。
仕方なくこの自転車をおしゃれ着のアジア人女性2人が漕いでいると対向車から数回手を振られることがあった。ギアもないタイヤも小ぶりな自転車で畑、環状交差点、砂利道を走った。映画のような淡い高揚感などなく、肥料の酸っぱい悪臭や、車に引かれそうになりながら走った。田舎のため信号もほとんどなく、1時間ノンストップで走った。何より1番辛かったのは最後の砂利道であった。何分ほどであっただろう、絶え間なく尾てい骨を殴られるような振動。降りて押せばいいじゃないかと思うだろう、しかしそれにしては遠すぎるのである。やっとの思いでそれらしき場所に到着するとカップルがいた。夢にまで見たあの湖、5年越しに憧れの地へ来た。エリオが自分だけのものと大切にしていた場所をオリヴァーに紹介する、まるで心を打ち明けるような行為のその場所。
しょぼい。だいぶしょぼい。湖というよりも水たまりのようであった。湖の反対側にいるカップルも微妙な顔をしていた。それならエリオの家に行った方がよかったのではないか、なんて考えてしまうほどであった。誤解していただきたくないのが、夏場に訪れればまた違う印象なのだろうが、ダウンまで来ている季節の水は冷たかった。天気も曇っていて、真夏の青空のもと見るこの澄んだ湖は大変美しいものだと思う。
往路は楽しみだったため苦ではなかった道も、興奮や感動もいまいちのまま帰る復路は厳しいと予想された。まるで見計らったかのように二人に尿意も襲う。そこの藪で用を足そうか?とも考えたがさすがに観光地、防犯カメラもあるだろうと思い断念。観光客に神社で用を足されると不快な気持ちを思い出しぐっと我慢。時間も迫っていたため鑑賞もそこそこにサドルで膀胱を抑えながら帰路に就くことにした。帰りは自転車屋の店主から言われた道よりもグーグルマップを信じることにした。また1時間ノンストップの体力勝負、往路では弾んでいた会話も復路では息切れになっていた。1万円を諦めて自転車を乗り捨て、タクシーを拾おうかと何度も思った。民家の犬にはフェンス越しから不審者のごとく吠えられる復路の5分は永遠にも感じられた。
無事に自転車を返し、街をトイレを求めて彷徨った。走行中タイヤにワンピースが巻き込まれて黒くなったことが悔やむことで気を紛らわせた。カフェに入り、本当にギリギリで間に合った。前に並んでいたおじさんに事情を説明して譲ってもらおうかとも思ったが立ち止まったら失禁してしまいそうに感じてグルグルとその場を歩きながら待った。冷えた体をホットチョコレートで温めその日のうちにベルガモに帰った。
少し食べ物の話をしようと思う。到着した日、陸国のチェコから来た私と内陸にあるボローニャから来た友人はタコが食べたいと意見が一致したため近くの海鮮レストランに行くことにした。しかし私たちの方向音痴を侮ってはいけない。ここだ!と思って入ったレストラン、メニューはたった一つ、ビュッフェのみ、お客さんは誰もいない。絶対に違うとの確証と共に店主に尋ねるとやっぱり違う、親切に道まで教えてくれた。なぜ間違ったのか、それはどちらのレストランもイタリア語で食堂という意味から店名が始まっていたためであった。無事にレストランに到着すると人気店ながら待ち時間なくあっさりと入れた。店の外観はまるで映画ブリジットジョーンズの日記でブリジットを巡る喧嘩で店内を荒らし、窓ガラスを破壊したあのレストランそっくりであった。お通しの謎の揚げ物がとても美味しかった。タコを含む料理はメニューでただ一つ、注文したのはいいのだが実際に来てみると真坂のタコがこのサイズ、この一点を除けば店主も陽気で料理も大変美味しく、値段もそこまで高くないとても素敵なレストランであった。
ベルガモの名物はクスクスのような見た目の練ったジャガイモと煮込んだ牛肉の料理と柑橘を模したマジパンであった。当方マジパンが大の苦手であるためケーキショップではジェラートを食べた。
先述した料理は友人がレストランで注文していたがあまり好みではなかったようだ。私も食べてみたが、味は薄く、掴みどころもない味だったためパスタの余ったソースを付けて食べる羽目になった。しかし旅行中で一番高級な店だったためきっとこれは私達の舌が未熟であったのだろうと思う。
また別の夜には寿司屋に入ったのだがなんといってもその日は大変空腹で一人前をそれぞれ食べ終わった後にまだお腹が空いていたのでさらに追加で手羽先を2人前注文した。
最終日にはせっかくのキッチンを使ってみようと自炊することにした。なかなかの出来栄えであるが、すべてレンチンか温めるだけ、切るだけの料理である。食事中はとても文字には起こせない、食事中に話す限度を超えた下ネタを話しながら食べ、そして食べきった。
こうして私たちの旅は幕を閉じた。聖地巡礼とは決して物語をなぞる行為ではなく自分の五感でその空気を目一杯味わう行為だと考える。先ほど湖を酷評してしまったが、やはり今思い出してもあの自転車で向かった一本道と澄んだ水の美しさは何にも代えがたい光景であった。思春期から現在にかけていつでも、この映画は混沌と視界を澄み切った景色だと肯定してくれる。クレマ、ベルガモの美しさが永遠のものでありますように。
Later.













