◎一週間ぐらい前から夜の暗闇から虫の声が聞こえる。昔はあれが鈴虫で、これがコオロギで、なんてことを知っていたはずだが、今はどれがなにやらわからないが、小さいか細い声がチリチリひょろひょろ聞こえてくる。いいもんだね。

 

◎一か月前ぐらいから、かるたの絵を頼まれ描いている。その時点で、無理だと思うけど8月中に絵ができあがればという話だったが、8月末の今時点で30枚ぐらいしかできていない。「8月中は ま 無理だと思うが」問い話で進んできたが、まだまだ時間があると、絵のことを忘れているわけじゃないだろうけど、句が揃わず全部決まったのが8月中旬ぐらいだったと思う。1週間に5枚ぐらいのペースで進めている。かるたは、「いろはに」の50個の音らしいが、「を・ゑ・ん」を抜くらしい。さて何枚になるのか・・。

◎先日、面白い動画を送ってもらった。1936年昭和11年10月7日、北野中学第四学年の生徒全員が、福知山の長田野演習場で軍事教練をしているビデオだ。「へええ そんな昔に ビデオカメラを担いで 演習風景をとっているとは・・」そう驚いたが、「撮ったのは 鴻池さん」と聞き、鴻池の御曹司ならそんな贅沢なこともあリかなと思った。

◎日清日露の戦争が終わり職業軍人の就職先ということで全国の中学校以上の学校に現役将校が配置された。大正14年陸軍現役将校学校配属令というそうだ。ネットで見ると、配属将校は、兵隊になるための初期訓練:軍事教練を行い、その権限は校長と同等の絶大なもので、少しでも生徒がたるんでいると、鶴の一声で授業が吹っ飛び運動場で行進の練習が始まった。他のネットでは、当時の日本は徴兵制度があり若い先生方は召集令が届き、学生全員に見送られて出征していったという記事が見える。

◎北野中学の学生たちを見ると帽子は学生帽に白い布が巻いてある。服も軍服のようで折れ曲がった衿が付いている。足には白いゲートルが巻かれ、ほんま物の鉄砲を担いで行進している。子どもたちに悲壮感はなくふざけた場面や笑顔も見える、機関銃の小さいものも見える。野原をかけめぐり盛り上がった土の前で鉄砲を構え撃っている。またまた走り出し、今度は腹ばいになって鉄砲を構え撃っている。15.6歳の少年が走り跳び鉄砲を撃っている。

◎「へええ こんなことがあったのか 中学生がこんなことをしていたのか」このビデオを見て驚いた。当時軍事教練があり戦争が目の前にちらついていたのは知っていたが、現在、今の世の中、こういうことは国民の目に触れないようにしてきたのかな。今では普通には考えられないが、「お国を守る お国のためなら死ねる」という考え方が常識だったのかもしれないね。

 

◎もう一つの驚きは、“殉難の碑”のことだ。北野中学のタイルの壁の一部が、ぼこぼこ凹と抉られた所がある。「あれは飛行機の鉄砲の弾のあとだ」と聞かされていた。コンクリートの壁がバケツ一個ぐらいに抉られるのだからその威力はたいしたもので、あの一発が当たれば像でも死ぬぞと想像できる。殉難の碑がその前にあり、校舎の壁が傷つけられた記念の碑かなぐらいに思っていた。

◎1945年6月15日の空襲で、十三は焼け野原になったらしい。校舎は幸い残ったがグラウンドは火の海だったと書かれている。「学校を守る学生」「なんで子供が学校を守るの」と不思議に思ったが、当時13歳の中学生が学校を守るために学校に居残り、そこにたくさんの爆弾が落とされた。ひとりは鉄兜をかぶった頭に破片が直撃して亡くなった。もう一人も足に被弾して亡くなった。学校を守るという当番で居残っていた二人が無くなったらしい。その事を殉難の碑としているらしい。

◎13歳の少年が、「今日は当番で学校に行く 美味しいものがもらえるので お土産に持って帰るからね」「そんなのいらないよ せっかくいただくのだから 食べてきなさい」なんて会話があったらしいことをお母さんの手記で残っている。当時若手の先生たちは徴兵で戦場に行っていたので、子どもたちに、学校を守るという仕事が回ってきたらしい。