お疲れさまですほっこり

月曜日に久留米市美術館で開催中の、
「日本が見たドニ | ドニの見た日本」に行ってきました!!

 

19世紀末のパリで、画家、美術評論家として活動していたモーリス・ドニ。

 

ジャポニスムの時代に育ったドニは、日本の美術から大きな影響を受けたんだそう。

 

(モーリス・ドニ 1870年11月25日 - 1943年11月13日)

 

 

その生涯と作品、同時代に生きた日本人画家達との接点を辿る展覧会です。

 

 

19世紀末のパリ。ドニら若い芸術家達がゴーギャンの教えに共鳴し「ナビ派」を結成します。

 

(ポール・ゴーギャン「家畜番の少女」1889年)

 

 

「ナビ」とはヘブライ語で「預言者」と言う意味。

 

それまでの西洋絵画に、平坦な色面や大胆な構図、装飾性を取り入れて新しい芸術の方向性を示そうとしました。

 

構成には、日本の浮世絵が影響を与えているんだそう。

 

 

ドニが二十歳の時の掛け軸のような作品。

この頃から、日本美術への高い関心がすでにあった。

 

(モーリス・ドニ「雌鳥と少女」1890年)

 

 

ナビ派のメンバー達は友情で結ばれてたそうで、結束力は高く、自分達を「預言者」と呼び秘密結社のように振る舞ってたんだそう。

 

 

ドニが妻への求婚時代をテーマにした作品。

 

(モーリス・ドニ「アムール(愛)」1892-1899年)

 

(モーリス・ドニ「アムール 青白い銀の長椅子の上で」1899年)

 

(テオフィル・アレクサンドル・スタンラン「バレエ「夢」」1890年)

 

 

1892年4月8日、日本人画家達がドニやナビ派の作品を始めて認識した日とされる。

 

 

婚約時代の妻・マルトをモデルにした作品。

 

(モーリス・ドニ「夕映えの中のマルト(マルト・サンボリスト)」1892年)

 

(久米桂一郎「晩秋」1892年)

 

(モーリス・ドニ「「ラ・デペーシュ」紙」1892年)

 

(モーリス・ドニ「なでしこを持つ若い女」1896年)

 

(オディロン・ルドン「「聖アントワーヌの誘惑」第三集 ⅩⅩ. 死神:私のおかげでお前も本気になることができるのだ。さあ抱き合おう」1896年)

 

 

「ナビ派」は、1890年代に活動を終えたとされる。

 

しかし、その後も共同作業は続けられていた。

 

(モーリス・ドニ「聖母月」1907年)

 

(モーリス・ドニ「アルミードの園」1907年)

 

 

1908年、ナビ派の仲間が画塾「アカデミー・ランソン」を開きます。

 

(斎藤与里「水浴の女」1909年)

 

 

ナビ派のメンバー達が講師を勤め、ルノワールから「良い先生がいる」と勧められた日本人留学生がここで学びました。

 

(ピエール・ボナール「浴室の裸婦」1914年頃)

 

 

1900年以降、洋画と日本画は手を取り合い、大正の美術を熟成させていく。

 

(太田喜二郎「赤い日傘」1912年)

 

(児島虎次郎「化粧」1908年)

 

 

久留米出身の画家、青木繁の作品。

 

(青木繁「温泉」1910年)

 

(小杉未醒「婦人立像」1911年頃)

 

(岸田劉生「大銀杏」1907年)

 

(岸田劉生「枯れ木」1908年)

 

(南薫造「葡萄棚」1915年頃)

 

 

壁画装飾など公共の仕事に意欲的に取り組みながら、1919年には宗教美術を研究するアトリエ・ダール・サクレを設立します。

 

(モーリス・ドニ 「波」1916年)

 

 

その頃、美術を愛好する日本人コレクターが登場し、彼らが収集したドニの作品は、1920年代から国内で紹介されました。

 

(モーリス・ドニ「若い母 」1919年)

 

 

この作品に描かれているのは、黒いヤギを引く金髪の少年が長男ドミニク、ヤギに乗っているのは次男フランソワ。

フランソワをかき抱くのは妻マルト。

(モーリス・ドニ「ベンガル虎 バッカス祭」1920年)

 

この作品は80年代にアメリカのコレクターの手に渡り、そこで左右に分断され、上部は細かく分断され、売却されてしまったという。

一旦別々に売られたたものの、両方を同じ画商が手に入れ、2001年に新潟県立近代美術館が購入。

 

 

(モーリス・ドニ「花飾りの舟」1921年)

 

(大久保作次郎「マルセイユの魚売り」1927年)

 

(モーリス・ドニ「シャグマユリの聖母子」1925年)

 

(小柴錦侍「卒世(いつも)やさしいサンタマリア」1926年)

 

(ジョルジュ・デヴァリエール「聖母の訪問 」1912年)

 

(福島金一郎「夏休み」1936年頃)

 

(板倉鼎「休む赤衣の女」1929年頃)

 

 

一見繋がっているようには見えない日本美術とフランス絵画。

 

でも、実際はお互いに強い影響を与え合っていたウシシ

 

これが解っただけでも、今後の美術鑑賞の参考になりますほっこり

 

日本とフランスが、お互いに与えた影響を解かりやすく教えてくれた展覧会でした音譜

 

でわでわパー

 

 

 

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最近ハマったブラックコメディぼけー汗


「デイブレイク ~世界が終わったその先で~」

 

「このサイテーな世界の終わり」

 

「住みにごり」

 

どよ~ん・・・となるのがわかってるのに見てしまうのが、ブラックジョークの魅力♪

 

 

年末年始のお知らせです♪

営業は12月31日(火)までさせて頂きます!

なお、30日(月)は営業させて頂きますので、是非御来店ください!!

そして、1月1日(水)~1月3日(金)を、お正月休みとさせて頂きます♪

皆様、どうぞ宜しくお願いいたしますほっこり

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お疲れさまですニコ

 

 

月曜日に福岡県美術館で開催中の、

「誕生100年 山下清展 百年目の大回想」に行ってきました!!

 

 

10年ぶりだビックリマーク

 

あの貼絵が見れるのもウシシ

 

 

ドラマでのイメージが強いと思いますが、実際はかなり違う人にやり

 

(山下清 1922年3月10日 - 1971年7月12日)

 

 

ランニングシャツに短パン、リュックサックがトレードマークでしたが、実際は制作中はその格好。

ですが、外ではリュックは背負っていたものの、浴衣や着物を着ていたみたいですガーン

 

 

あと、旅先で人と触れ合って最後に絵をプレゼントするというストーリーでしたが、実際は旅先で絵を残したことは、ほぼ無し。

作品のほとんどは、旅から帰ってから制作。

 

驚異的な記憶力を持っていたそうで、花火や風景画など、全て記憶のみで描いてたみたいですおーっ!

 

記憶が消えないため、何年も前に描いた絵と同じように描く事が出来たんだそう。

 

 

ドラマとは全然違う山下清の実相

 

 

では、いざビックリマーク

 

 

 

3歳ごろ、病気の後遺症から軽い言語障害を患う。

(この頃の名は大橋清)

 

(花火(大橋清) 鉛筆画 1930ー1932年頃)

 

 

そして少年期、神経衰弱では負け知らず。

大人でも書けないような複雑な漢字をすらすら書くなど、この頃から驚異的な記憶力があったんだそう。

 

(こいのぼり(大橋清)鉛筆画 1930ー1932年頃)

 

 

だが、始めは普通小学校に通ってたものの、他の生徒と中々馴染めずにいたため、

1934年5月(11歳)、障害児施設の「八幡学園」に転校。

(この年に母の旧姓から山下清となる)

 

 

ただ、この転校こそが、後に「天才画家」と呼ばれる転機となります。

 

 

「ちぎち絵」との出合い。

 

(「蝶々」 貼絵 1934年)

 

 

1936年(13歳)、指導を受けることで、より一層開花していき、16歳の時には有名画家からも高く評価されるようになります。

 

(「ほたる」 貼絵 1934年)

 

 

初期の作品は、身近な昆虫が中心

 

(「せみ」 貼絵 1934年)

 

 

人間不信だった事もあり、人間は描かれていません。

 

(「くもとけむしのスケッチ」 鉛筆画 1936年)

 

 

でも、だんだんと他の生徒達とも意気投合し、学園に馴染んだ頃から徐々に人物が登場します。

 

(「ラジオ体操」 貼絵 1936年)

 

 

描く対象が昆虫から学園での出来事、友達との体験が描かれていきます。

 

(「柔道」 貼絵 1936年)

 

変化したのは題材だけではなく、大きな色紙を貼る初期作品から、色紙を細かく千切って貼る貼絵のテクニックも驚異的な進歩を遂げます。

 

(「活動写真」 貼絵 1937年)

 

 

物資不足だった時代。

 

(「ともだち」 貼絵 1938年)

 

 

色紙の代わりに切手やチラシ、包装紙などで代用し製作していました。

 

(「栗」 貼絵 1938年)

 

 

この頃から急激にクオリティーが上がっていますおーっ!

 

(「菊」 貼絵 1939年)

 

 

繊細過ぎて目が痛いえーん

 

(「八幡様の鳥居」 貼絵 1939年)

 

 

だが1940年(18歳)突如学園を脱走しますおーっ!

 

ここからドラマでお馴染み、14年にも及ぶ放浪生活の始まりですビックリマーク

 

(因みに最初の脱走理由は、徴兵検査が嫌だったためらしい。)

 

 

旅は迷子にならないよう線路の近くを歩いたんだそう。

 

(「汽車道を歩いているところ」 鉛筆画 1954年)

 

 

食べ物は恵んで貰ってもいたが、実際は魚屋、蕎麦屋、弁当屋で住み込みで働いたりもしたみたい。



(「ラ・ムスメ(娘)-ゴッホによる」 貼絵 1940年)

 

 

おにぎりは、特別好きな訳ではないらしいぶー

 

日記に「おむすび」と言うワードが多々あり、恵んで貰った食べ物の中に、たまたま、おにぎりが多かっただけらしいうーん

 


(「上野の五重塔」  貼絵 1940年)

 

 

最初の荷物入れは風呂敷でしたが、盗まれたためリュックに変えたんだそうえー?

 

(「学園付近の景色」 貼絵 1943年)

 

 

始めの旅は2年半。

その後も半年ごとに放浪しては、連れ戻されたり、飽きて家に戻るなどを繰り返したんだそう。

 

だが、この旅先での様々な体験が、数々の名作を生む事となります。

 

(「山の頂上から見た景色」 貼絵  1950年)

 

 

学園や実家に戻るたび、複雑な花火や風景画など全て記憶のみで描いていきました。

 

(「自分の顔」 貼絵 1950年)

 

 

貼絵は、かなりの時間を費やす作業のようで、製作に10日~1ヶ月近くかかるらしい。

 

(「遠足」 貼絵 1950年)

 

 

「日本のゴッホ」と呼ばれるが、本人はゴッホを知らないらしいしょんぼり

 

(「金町の魚つり」 貼絵  1950年)

 

花火が好きだった。

 

花火大会開催を聞き付けては、全国に足を運んでいた花火

 

(「長岡の花火」 貼絵 1950年)

 

 

始めは現実逃避だった放浪理由も、後に、ぼんやりとした時間、綺麗な景色を見たいがための欲求へと変わっていった。

 

(「神宮外苑」 貼絵 1950年)

 

 

1951年から油彩も始める。

 

(「ぼけ」 油彩 1951年)

 

 

貼絵の要領で点画で描いています。

 

 

こうして、ほとんどの日々を放浪についやしていた1954年(32歳)

山下清が一躍有名になる転機が訪れます。

 

アメリカの雑誌「ライフ」の特派員が山下清の絵に目をつけて取材を希望。

 

しかし、肝心の本人は、また放浪中えーん

 

なので、朝日新聞が紙面で大々的に大捜索の記事を全国配信した事で、全国に知れ渡りました

 

こうして1954年、鹿児島で高校生に発見されて、14年の放浪生活に幕を下ろす事となります。

 

(「桜島」 貼絵 1954年)

 


その後、学園長に、放浪を辞める契約書を提出するが、56年まで放浪は続いたらしい汗

でも、この頃には超有名人になっていたため、もう気ままな旅は出来なくなっていたんだそうショック

 

そして、周りからの勧めもあり、

ここで本格的に「画家」山下清としての活動が始まります。

 

1956年(34歳)東京の大丸百貨店で開かれた個展は、なんと80万人を集める大盛況!!

(この動員数は未だ破られてない)

 

(「開聞岳」 油彩 1956年)

 


全国巡回展が約130回開かれ、観客は500万人を超えた。

大丸の展覧会には当時の皇太子も訪れたんだとかガーン

 

(「グラバー邸」 貼絵 1956年)

 

 

1956年からペン画も始める。

 

(「関門海峡」 ペン画 1956年)

 

(「養老の滝」 ペン画 1957年)

 

(「大谷の平和観音」 ペン画 1958年)

 

 

1958年には、山下清をモデルにした映画「裸の大将」が公開。

 

でもキャラがデフォルメされすぎていて、本人は不満だったらしいぼけー

 

(「ソニコンロケット」 貼絵  1959年)

 

(「群鶏 」 油彩 1960年)

 

(「小石川の後楽園」 ペン画 1960年)

 

 

1961年(39歳)約40日間のヨーロッパ旅行に出発。

12ヵ国を短期間で周り、各地の名所のスケッチを行い帰国後、絵に残した。

 

この頃から、水彩画も始める。

 

(「パリのエッフェル塔」 水彩画 1961年)

 

(「パリのノートルダム寺院 」 水彩画 1961年)

 

(「パリのムーランルージュ」 水彩画  1961年)

 

(「ストックホルムの市役所の庭」 水彩画 1961年)

 

(「ストックホルムの夜景」 水彩画 1961年)

 

(「オランダの風車」 水彩画 1961年)

 

(「コペンハーゲンの人魚像」 水彩画 1961年)

 

 

ヨーロッパ旅行の感想は・・・

 

(「パリの凱旋門」 ペン画 1961年)

 

(「パリのサクレクール寺院」 貼絵 1962年)

 

(「スイス風景」 貼絵 1963年)

 

 

「面白かったが、やっぱり日本が一番過ごしやすい」

 

との事ほっこり

 

(「ハイデルベルグの古城」 貼絵  1964年)

 

(「ロンドンのタワーブリッジ」  貼絵 1965年)

 

 

晩年は「東海道五十三次」の制作を行うためスケッチ旅行に出かけ、およそ5年の歳月をかけて55枚の作品を残しています。

 

(「東海道五十三次・舟でくる町(桑名)」 版画  制作年不詳)

 

(「東海道五十三次・富士(吉原」) 版画  制作年不詳)

 

(「東海道五十三次・掛川(小さな城)」 版画  制作年不詳)

 

 

ただ、1968年(46歳)高血圧による眼底出血に見舞われ、中断し療養に入ります。

 

そして、1971年(昭和46年)7月12日、脳出血のため死去。49歳没。

 

最後の言葉は「今年の花火見物はどこに行こうかな」

 

(「蜂」 ペン画 制作年不詳)

 

 

山下清は、多分日本で一番有名な画家じゃないかと思います。

 

でも、我が輩も含め、ほとんどの人はドラマからイメージに影響されていると思います。

 

実際の山下は、繊細でナイーヴであり几帳面な性格でした。

 

(「杉並の大聖堂」 ペン画 制作年不詳)

 

 

そして山下は、どこの美術会派にも属さなかったらしい。

 

逆に言えば、評論家からの評価など必要としないほど、山下清は人々の支持を得ていました。

 

ドラマ「裸の大将」が人気だった事を考えると、旅に生きる不器用な男の姿に、大衆的には共感する物があったんだと思います。

 

(「桜島」 ペン画 制作年不詳)

 

 

今回の展示会で、冒頭に山下の家族である山下浩の言葉がありました。

 

 

「清と同じように、美しいものを見る"ぼんやり"とした時間を楽しんでください」
 

 

我が輩も"ぼんやり"しすぎて3時間くらい会場内で眺めてしまいましたほっこり

 

作品を通じ山下清の本当の姿を見れた事が、とても有意義に感じます。

 

 

「放浪の天才画家」の超絶技巧!!

 

堪能出来て何よりですウシシ

 

 

p.s山下清のサイン音譜

(「さかな」)

 

 

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