第482回さいたま三愛病院糾弾ブログ/番外編・れっきとした長男なのに後妻の剣幕を恐れて生涯いないことにした「司馬遼太郎の隠し子」の巻ー「叱るquizシリーズ15・司馬遼太郎編」其の1

今日の弊欄は、一昨日、ヤフー知恵袋に投稿した「転載・引用についての質問」をコピペしてオヒラキです。回答が付きましたので、原質問もコピペ引用しておきます。

ー(以下ヤフー知恵袋「
転載・引用についての質問 」引用)。
転載・引用についての質問です。今は廃刊になった雑誌「噂の真相」1998年6月号に(24~30頁全7頁の)特集「司馬遼太郎の隠し子問題」があります。此の全7頁を全文画像として転載するのは許されないこと?

特集名は『「戦後最大の歴史家」司馬遼太郎が歴史から抹殺した私生活の”過去”ースクープ!』というのですが、たとえ転載許可を得ようとしても事実上不可能なのですが、さりとて、廃刊した雑誌といっても、だからといって著作権が(一緒に)なくなった訳ではないだろうし、やはり、法律上は「全文転載」はバツでしょうか?

今日のシンデレラタイムを過ぎたら、弊「さいたま田島三愛病院糾弾ブログ」に、とりあえず、冒頭頁(24頁)のみを(引用元を明記して)転載させて頂いておきますが、これくらいならば「適法」と思うのですが、これも駄目でしょうか?

ためしに、「司馬遼太郎・隠し子」の2語でググルと、3頁目かに弊欄(2013年3月30日付)が表示されて驚きましたが、(れっきとした法律上の「長男」なのに)(恐らく後妻を恐れて)抹殺された「隠し子」について触れているブログもありましたが、此の「噂の真相」については(あとのほうで表示されているのかも知れませんが)早い方には表示されていませんでした。ファンが多い作家の「真相」をせっかく公開してくれているのですから、質問者は「適法に」転載したくお伺いする次第です。
質問日時:2014/3/8 22:45:58

〔回答〕
(2件中1~2件)
〔第二回答〕
customsprofesser さん
1ページをまるまる転載でも著作権侵害の可能性が強いです。まして全部はだめ。
なおこの長男の存在はWikiにも載っていますおり、そこでは「公に公表したことはない」とありますが、作家でも家族について公表する義務はありません。
回答日時:2014/3/9 15:59:09

〔第一回答〕
lazy_clerical_worker さん
合法的に全文転載をする手段であれば、2つあります。
・普通に転載許可を求める。
・2048年まで待つ。
回答日時:2014/3/9 15:51:34
ー(以上ヤフー知恵袋「
転載・引用についての質問」引用)。

(「箸にも棒にも掛からない問題病院」に数多くヒットするように)、「さいたま市桜区田島の三愛病院の口コミ・評判・悪評・恨み節・帰らぬ繰言・うわさ」という言葉を入力して、「
三愛病院の医療姿勢を改善させる会 」のブログにリンクを貼っておきます。此の記事の「医療過誤死亡事故」の反省がまったく生かされずに(むしろそれよりもずっとヒドイ形で)、私のオフクロは胃カメラ検査直後に急死させられ、院長は説明を一切行なうことなく机を叩いて(あまりの突然の急死に呆然としている)遺族を恫喝したのでした。嗚呼。

customsprofesserさんの仰せに従って、遅ればせながらウィキペディアを見ましたら、以下のようにありました。-Q始ー
同(※25)年に最初の結婚。1952年(昭和27年)に長男が誕生するが、1954年(昭和29年)に離婚。長男は実家の福田家に預けられ祖父母に養育される。この結婚及び、誕生した息子のことは、公的には一切公表されず、司馬にとって「隠したい過去」であったのではないかと思われる。(中略)
1950年(昭和25年) - 最初の結婚。同年の金閣寺放火事件では住職等から犯行の動機をすっぱ抜く。/ 1952年(昭和27年) - 長男誕生。/ 1954年(昭和29年) - 離婚。長男は実家の福田家に預けられる。ーQ終ーと。

実は今日は、問題になっている「噂の真相」の特集『「戦後最大の歴史家」司馬遼太郎が歴史から抹殺した私生活の”過去”ースクープ!』(冒頭頁は前回添付しましたので今日は)最終頁のみを画像添付するつもりにしていたのですが、customsprofesserさんから御教示を頂いたので、それを無視して画像添付するのもマズイので、今日は画像添付は(お愛想なしですが)ヤメです。customsprofesserさんの回答に誘われて、今頃になってはじめてウィキペディアの「司馬遼太郎」を読んだのですから、不勉強です。第一回答のlazy_clerical_workerさん仰せのように(根拠は分からないのですが)「2048年まで待つ」のもテですし、「普通に転載許可を求める」のもテなのでしょうが、ナニシロ、発表名が「本誌特別取材班」なのですから内情を知らぬ者にはとても難しい案件です。私が此の件を知ったのは、同じ「噂の真相」の(たしか)田中康夫が出席した座談会形式のもので、テーマは「文壇タブー」といったものだった筈です。松本清張の(驚き入った)女癖の悪いのも(文壇タブーの一つだそうで)、其の座談会で知ったことです。そういえば、練馬の有名居酒屋で(それまで名前だけ知っていた)平岡敏夫先生に偶然会って話すようになったことは(以前の弊欄で)書いたことですが、ある時、松本清張記念館の館長さんに会ってきたと仰せでしたが、私の愛唱する詩人の子供さんは「無事」だったのかと気になりますが、無事か無事でなかったか、これまた「文壇タブー」なのかなあ・・・と。也

PS:ちょっと時間があったので、グーグルで「ナメタライカンゼヨ・平岡敏夫」2語で検索したら、弊欄のちょうど2年前、
2012年3月12日付 が「第一位」に表示されました。無画像のお愛想なしでしたので、其処にリンクを貼りつつ、其の一部分をコピペして、オヒラキにします。-Q始ー
平岡先生がある研究会の会長をなさっていて其の事務局長の後輩が「フイタ」のでしょうね、「あなたは全優だったそうですね」と云われて、「イヤー、全優(オール優)ではなくてオンリーユー、優一つです」と答えたことがありました。先生からは、「いま藤井康栄さんと会って来た」と仰ったことがあって、聞けば、松本清張記念館の館長で(私がオヤジの告別式で日色ともゑさんの前で厚かましくも暗誦した)大木惇夫のお嬢さんとのことでした。ーQ終ー。其の2年前のブログで「朝日賞の授賞パーティーで(私の高校時代のSS先生と話して私の名前が出たそうで)其のSS先生から、私のことが話題になったと葉書を貰ったことがあります。」とも書いていますが、SS先生とは祖父江昭二とおっしゃる先生のことです。此の十年くらい(中江兆民云うところの)「地下暗黒旅行中」なものですからどなた様とも音信不通にしており、亡くなったのを知ったのも、高校卒業50周年記念誌からでした。トホホ。そろそろ、実名を発表する時期に来たようですので(名誉毀損等で訴えられたら強制的に実名は公開されますし)、(アート引越センター社長の老嬢・デマダセンヨノー一座のストリップ・ショーの真似をして)ゆっくり一枚一枚脱いでゆくことになろうかと思います。
祖父江先生が亡くなったそうですので、ついでに見付けた「SS先生」の実名公表に踏み切った次第です。三愛病院に以前勤めていて、其処に勤務することは患者の為にならないと辞めて、自分のブログで口を極めて非難されていたU氏も仰っていましたが、(私のように)「匿名」は信用ならんと。ホント、仰せの通りですので、すっきり立ち上がって語りたいのですが、やはり(最後の一歩を)躊躇するのです・・・。(甘ったれるなと叱られそうですが)お察し下さい。

平成26年03月10日00時10分

さいたま三愛病院を糾弾する
コードネーム0213231
(追うに意味ありto三愛)